18/10/14 那珂市瓜連町 水戸・歴史に学ぶ会 
明治維新150年記念講座 水戸藩と馬頭の「記恩之碑」。
薗部等先生。

■馬頭町について。
馬頭町、今はない。
2005年。
馬頭町と小川町が一緒になり那珂川町になった。
那珂川町は古くから武茂(むも)郷といった。
中世期。宇都宮氏支族の武茂、松野両氏によって郷が支配された。
戦国動乱の世。佐竹氏に属した。
江戸時代。旧馬頭町は武茂郷17ケ村として水戸藩領だった。

■廃藩置県。
明治4年1871。廃藩置県 全国の藩を廃止。県と府に置き換える。
昭武 水戸藩知事。水戸県。3府302県。武茂郷は水戸県になる。
11月改廃。302県は72県になる。武茂郷は宇都宮県になる。
260余年にわたり水戸藩の治政下あった武茂郷。
村民は不安から、水戸県への据置き嘆願書を提出する。も不許可。

●嘆願書。
茨城県管轄据置嘆願書。
恐れ乍ら書附を以て願上奉り候事
今般御改正に付き、御支配地武茂の義。
宇都宮縣へ御引渡しに相成り候・・・以下省略
組頭 小高・・・ 庄屋 鈴木・・・   水戸縣御役所様上

■紀恩之碑。
●那珂川町小砂に花舘山がある。
山頂に、花崗岩台石の上に、高さ2m・幅1.3mの紀恩之碑がある。

●碑文。 
郡県制度は一視同仁なるに、
獨り下野国那須郡武茂郷十七村は、
猶水戸藩の治を懐ひて云を忘るること能はざるがごとし。
水戸、曾て常陸東部と下野の一隅を領す。
県制既に立ち下野は栃木縣に屬し、
常陸は茨城縣に属せり。・・・・以下省略。
明治廿五年十二月建  従七位勲八等市川時叙撰文并書

●武茂郷の人々は永年の水戸藩政を回顧。
景仰の念を抱き、その恩誼を忘れず紀恩之碑を建立。
碑文には、光圀と斉昭など水戸藩代々の治績令徳と遺徳が記される。
水戸藩の善政を石碑にたくした。感謝・恩に報いたい。恩を示す碑。
紀恩の碑。紀恩碑は水戸方面を向いている。

●碑文を代作したひとがいる。
市川時叙は、水戸藩最後の西郡奉行。
市川時叙は、
磯原村の野口勝一(野口雨情の叔父) に碑文を依頼している。

●<石碑は廃藩置県、20数年後におこなわれた。常磐神社創建経緯との関連がある??>

■水戸常磐神社の創建。
明治5年。光圀・斉昭の神社創建建白書・神社創建願書を県に提出。
これに対し水戸の人々がこれまでの党争を止めて非を悟り、
これを光圀・斉昭に誓約するならば神社創建に力を尽くそうという役人の態度。
この為、西郷隆盛にお願いする。西郷が神社創建の実現を促した。
明治6年1873。勅旨「常磐神社」社号を賜る。
明治7年1874。現在地に社殿造営。
光圀「高譲味道根命」・斉昭「押健男国之御楯命」の神号宣下される。

■馬頭町の小砂焼。
斉昭による天保改革のひとつ殖産興業策から「小砂焼」がおこる。
大砲鋳造用反射炉構築の耐火煉瓦の原料、陶土を搬出している。

●紀恩祭について。
紀恩之碑の建立を記念する碑が花舘山中腹にある。
記念碑の碑文に、紀恩会を設け…とある。
紀恩会が組織され、
昭和20年の終戦時まで毎年4月に紀恩祭が行なわれた。
昭和20年。神道指令が出された後は実施されていない。
<神道指令しんとうしれいは、
1945年、GHQが政府に対して発した覚書。
「国家神道、神社神道に対する政府の保証、
支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」>

●金の産地。
奈良時代、奈良で大仏鋳造が始められた。
大仏に塗る金を武茂郷より運んだ。