18/10/14 常陸太田市 佐竹家臣団小野崎氏一族と薩都神社。
< >はhp制作者メモ。
講演会。 富山章一先生・小田倉孝則先生・根本光男先生。
■富山章一先生。
●国替と93騎。
佐竹義宣は常陸から秋田につれていく家臣を93騎とした。
12代義盛の時に決めた93騎。
しかし、1604年までに秋田へ移った家臣は390人。
移った家臣は一族の本家・長男が多い。
多くの2男・3男は農民となり領内に残った。
佐竹氏関係資料は紛失が多い。
■秋田藩の系図編纂事業。
秋田藩は寛文・元禄・文化年間に、家臣から系図を出させ整理した。
<佐竹氏は減封で秋田へ国替となった。
家臣団は、常陸以来家臣・地元出身者・戦国流浪者。
家臣の系譜を明らかにするため藩士に系図を出させた。
元禄期の系図編纂。
「佐竹家譜」「秋田藩家蔵文書」「諸士系図」。
文化期の編纂。
「国典類抄」。
寛文1661〜 1673年。
元禄1688〜1704年。
文化1804〜1818年>
■秋田藩家臣団の構成。
家臣は1,700〜2,000人。
<家臣団の構成。苗字を使える「一門」。門閥首位「引渡」ひきわたし。
歴代の重臣・功臣「廻座」まわりざ。 
150石以上で由緒ある家筋「一騎」。
70石以上の「駄輩」。
30石以上の「不肖」。
「歩行」・「徒並」・「足軽」>
<1708年の石高。
5000石以上 7人。
4000石以上 3人。
3000石以上2人。
2000石以上1人。
1000石以上16人。
150石以上294人。
70石以上415人。
30石以上629人。
30石未満383人 
計1750名>
■一門と引渡衆。
●一門。宗家にいちばん近い位置にいる身内。
●引渡衆。家臣団のトップに位置する。
■廻坐衆。
家臣団の中の歴代の重臣。
山能小野崎・和田氏・小貫・大山・真壁・古内・真崎・今宮など。
<●引渡衆。所預(支城主)、家老。
佐竹(北)・小場(西)・石塚・大山・戸村・
今宮・小野岡・岡本・古内・芦名・宇留野・宇都宮。
佐竹(東)・佐竹(南)・真壁・宇都宮・
多賀谷・茂木・伊達・武茂・矢田野・塩谷・須田・松野。
●廻座衆。家老、相手番、寺社奉行、大番頭など。
小野崎・和田・小貫・酒出・松野・早川・
宇留野・真崎・小田野・小場・戸村・小瀬・今宮・小野岡・古内
・茂木・向・渋江・須田・田代・前小屋・赤坂・
福原・佐藤・梅津・玉生・船尾・中川・細井・小野寺・
矢田野・塩谷・武茂・大越・山方・荒川・大塚・信太・
黒沢・疋田・岡谷・白川(結城)・土屋・八木・大沢・真壁・平元>

■宿老 小野崎氏。
根本光男先生。
■山能小野崎氏の歴史。
藤原秀郷(俵藤太)→藤原通延→藤原通成→小野崎通威。
1109年.通延 太田に進出。太田城を築城。
1150年.通威 小野郷の先端に築城。小野崎氏と名乗る。
1221年.為通 佐竹義重に従い宇治川の合戦。
1335年.政通瓜連城を巡る戦いで功をあげる。
1348年.通胤 十王の櫛形に移る。
友部城を築城。山能小野崎氏と名乗る。
成通子ども無く、佐竹義昌を迎える。
山能小野崎氏は、秋田藩で家老・大番頭をつとめる。
■石神小野崎氏。
山能小野崎氏通胤2男通信が、初代石神小野崎氏となる。
2代通房。初代を通房とする説もある。
通老。石神内宿に石神城を築城。
石神小野崎氏は、秋田藩で家老職をつとめる。
■額田小野崎氏。
山能小野崎氏通胤3男通業が、初代額田小野崎氏となる。
通重、額田城主となる。
額田城はもともと佐竹一門が分家し居城とした。
佐竹の乱のとき山入氏に協力。
1423年.額田城に籠城し滅亡。
昭通。伊達政宗からの密書をもらう。
昭通は、佐竹義宣に攻められ伊達家へ逃れる。
その後、水戸徳川家に仕える。
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以下講演は欠席。配布資料より記載。
■佐竹家臣団小野崎一族と薩都神社。
小田倉孝則先生。
■薩都神社。
延喜式内 久慈郡二ノ宮。 
御祭神 立速日男命。
■佐竹氏と家臣小野崎氏と薩都神社のかかわり。鎌倉〜室町時代。
1346〜1369年。佐竹義信、小中島の社殿を修造。
1517年.佐竹義舜、薩都神社本殿を小中島から新宮(現在の地)へ遷宮。
小野崎三家(山尾家・石神家・額田家)は、
神宮寺(佐都南蔵院観音寺)の本殿・三重塔を建立。
本尊十一面観音立像を寄進。
薩都神社の神楽殿・拝殿を建立。
神領は永正年中佐都郷33ケ村。<1504〜1521年>
■秀郷流藤原氏と小野崎氏のかかわり。平安後期。
1109年.藤原通延みちのぶが太田城を築城。
通成。佐都郷(里野宮)に移る。
1150年.通威は瑞龍の台地、小野崎に進出。小野崎氏を名乗る。
4男通頼。赤須村に築城。赤須氏を名乗る。
城主と薩都神社の宮司をつとめる。
薩都神社は、小野崎氏・小野崎一族の氏神として崇拝される。
■薩都神社の誕生と成立。縄文から古墳時代へ。
●第1の聖地。速日男命の降臨した地は松澤。
松澤は、里野宮の南、小野の松崎。
立速日男命は、農耕民の穢れをきらった。
あらぶれる神となる。
困った人々は、神に清浄な高峰への移動を願う。
里野宮町の薩都神社が本宮。
●第2の聖地。賀毘礼高峰。
高峰は、御岩山の賀毘礼高峰。
山中に薩都神社中宮・山頂に奥宮がある。
御岩山には縄文時代の祭事場が残っている。
縄文時代より巨岩があり自然崇拝されていた。
●第3の聖地。小中島の社。里川流域の川中島。
●立速日男命は、4月に賀毘礼高峰の奥宮から里におりて本宮に入る。
田の神になる。
秋に小野の台地にいく。新酒をつくる。
12月賀毘礼高峰の奥宮にもどる。山の神になる。
■常陸国風土記と藤原氏。奈良時代。
薩都神社は、717〜724年に完成。風土記に薩都神社の記載がある。
常陸国国司は藤原宇合うまかい。
874年神位従四位下。常陸国延喜式内28社の上位になる。
■常陸平氏の関わり。
806〜809年。平良将小中島に社を建立。
■水戸藩成立と薩都神社。
●佐竹氏国替えで大旦那を失う。
●1648年.徳川家光より圭田50石を与えられる。
●1677年.光圀。神仏分離を実施。
神宮寺・十一面観音を根本照光院に移す。観音を梅照院に移す。
1679年.三重塔を玉簾寺に移す。
神領50石を水戸領内検地改め58石3斗5升8合。
●斉昭。一村一社の令。神領は33ケ村から里野宮1村となる。
<急速に衰退する>
<薩都神社に関係する瑞龍町・御岩山は、縄文時代の遺跡がある。
薩都神社周辺地域は、大和朝廷以前より自然崇拝の地>