18/9/22 東海村 古文書と歴史を学ぶ会講座
石神城と中世の城郭。
講師 宮内教男先生。
以下のような話があった。<>はhp製作者のメモ。
●石神城は、佐竹氏家臣で初めて県指定文化財に指定された。
<2017年指定>
今日の話は、1200〜1600年の中世のはなし。
かつて論文を書いたときに茨城の城は約500と書いた。
当時、全国の城の数は約20,000と考えていた。
今年茨城では中世の城をきっちりと調べようと調査がはじまった。
茨城の城は1,000くらいになりそう・全国は40,000くらいか?
●しかし、城主のわかる城は少ない。
石神城は城主がわかる。
県指定文化財に指定されるに大切な要素。
石神城に関して、信頼できる古文書が残っている。
配布資料の古文書は1933年東京大の先生が写したもの。
当時はコピーや写真がなく手でうつした。
●「石神城」。
県指定文化財に指定されたときの県からの説明概要。
佐竹氏家臣の石神小野崎氏が在城した城館跡。
土塁や堀でT〜V郭に区画されており、
保存状態は非常に良い。
佐竹氏関連の城館遺構として貴重。
●石神城跡は、佐竹氏家臣の石神小野崎氏が在城した城館跡。
●石神小野崎氏は、近傍の額田小野崎氏と対立しながらも、
1602年に佐竹氏が国替えにより出羽国に移るまで、石神城を守備した。
●県指定文化財に指定されたときの県の先生の見解。
本遺構は3区からなり、
東から西にかけてT郭・U郭・V郭に分かれている。
このうちT郭は「遠見城」とよばれる物見とする見解が、
またU郭は「御城」とよばれる本丸とする見解がある。
各郭は土塁や堀で区分されており、
保存状態は良好。
●県の先生の見解は、
本丸がどこか明確でなく、微妙な文章になっている。
普通には、T郭が本丸となる。
が、U郭が「御城」とあり本丸とも考えられる。
通常は、守りの堅いところが本丸。
石神城の場合、T郭は「遠見城」の守りが一番堅い。
●T郭。
遠見城 とおみじょう。
東西約30m。南北約95m。
掘立柱建物。U郭からT郭へは木橋か?
●U郭。
御城 実城 みじょう。
東西約100m。南北約125m。
もっとも広い面積を占める曲輪。
縦約4m・横約16mの建物柱跡。
●V郭。
東西約90m。南北約150m。
井戸・竪穴建物の柱穴。
V郭は16世紀後半に拡張工事により設けられた曲輪。
V郭から城外への出口は北側の中央と南東の隅。
●石神城のどこが本丸か結論がでていない。
●配布資料の古文書。
常州石上(石神)城において合戦の時、
分捕りいたすの由、
聞こしめされるところなり、
もっとも以て神妙なり、
向後いよいよ戦功を抽(ぬ)きんずるべきの状、
件(くだん)のごとし
永享4年3月20日 (花押)
小野崎越前守殿
●これは永享4年(1432年)3月20日足利持氏感状。
<分捕り 戦場で敵の首や鎧兜・武器などを奪い取ること>
●戦いは佐竹宗家と山入氏の戦。
石神城には山入氏がいてそれを小野崎氏が攻めた戦い。
石神城に小野崎氏がいつ入ったかは次回説明。
足利持氏は佐竹宗家を応援。
足利持氏は鎌倉の長官。
小野崎氏は感状を佐竹氏に提出。
<そして恩賞をもらう>。
●本丸・二ノ丸の呼び方は江戸時代。
中世は、T郭・U郭・V郭を使う。
配布資料の石神城は、
東よりU郭・T郭・V郭となっている。
しかし、遠見城が本丸と考えている。
遠見城の守りが堅い。
石神城の建物の柱は、
礎石を使わない掘立柱になっている。
礎石の無い建物は弱い。
城主の住居は別にあったと考えてもいる。
第Wの郭に住んでいたのではないか。
第Wの郭は、北部にある。
常陸太田市にある佐竹宗家の場合、城主は北郭に住んでいた。
本丸は太田小学校。
北郭は太田第一高等学校にあった。
●石神城は、総構え。コミセンのあるX郭の掘。
●石神城は見通しがよかった。城から久慈川・海が見えた。
久慈城も川・海が見える場所にある。
石神城・久慈城で、川・海の様子を確認できた。
●中世になぜ城がつくられたか。
中世は自力救済の時代だった。
問題があった場合、自分の力で何とかする。
力で問題を解決する。
この考えは、江戸時代は否定されている。
土地を横取り。領主のけんか争い。
●当知行。
ある領域の土地を現実に支配していること。
現実支配。法律違反はかまわない。
支配したものが勝ち。
中世に認められていた考え方。
●ある領域を支配するための拠点。これが中世の城。
中世の城は当知行のシンボルだった。
城を奪うことが大事。力で支配する。
これが中世の城。
●配布古文書より。
行方であった話。鹿嶋文書。
足利尊氏が裁判で判断。
足利尊氏の判断をもって、
城を明け渡すように行方に城受取人がやってきた。
明け渡しを要求された城主は、
城に構えて城の明け渡しを拒絶した。
城をとりたければ攻めてこい。
城受取人は困って、
一生懸命やっているが、
城を明け渡してもらえないと書いている。
●全部の城に城主がいたか。多分いない。
農民のささえるお城がある。
合戦があると、一番被害を受けるのは女性・子供。
女性・子供は人身売買された。
合戦の時、女性・子供は狙われた。
農民も自力救済だった。
だから避難を考えていた。
そのための地域の城が必要だった。
戦いがあれば女・子供は惣構えの中に入る。
避難する。
石神城の場合2km四方に住んでいる人が対象。
農民は城のメンテナンスをおこなった。
住民の公事くじ。
住民税のようなもの。
城は戦いのとき守ってくれる場所。
農民たちの城。農民の自力救済のため。
●<天神山の>真崎城もそのようなものかもしれない。
真崎氏の地位を考えると
真崎氏の城は別にあったかもしれない。
真崎氏にしては、今の真崎城は小さい。