18/9/17 水戸市 歴史館 アイヌ文化普及啓発セミナー。
以下のような話だった。[ ]はhp製作者のメモ。



イランカラプテは、「こんにちは」の意味。
■北海道東部標津町にまつわるアイヌの歴史
北海道150年事業のキーパーソン松浦武四郎を手がかりに。
講師。小野哲也先生。
北海道標津町ボー川史跡自然公園学芸員。
●標津町しべつちょう。
知床半島の南端。
人口約5,300人。
サケ漁・ホタテ漁・酪農が基幹産業。
●松浦武四郎。
1818年。三重県に生まれる。
幕末の探検家。
1869年。開拓使判官として「北海道」の道名・「標津」など郡名を選定。
●松浦武四郎の蝦夷地探検。
1845年。東蝦夷地を巡検。標津に訪れている。
1846年。西蝦夷地と樺太を巡検。
1849年。主に千島半島を巡検。
1856年。東西蝦夷地と樺太の海岸沿いを巡検。標津に訪れている。
1857年。西蝦夷地を巡検。
1858年。主に東蝦夷地を巡検。標津に訪れている。
○1845年・1846年・1849年は、蝦夷地は松前藩の管轄下で渡航規制があった。
商人になりすまし巡検。
○1856年・1857年・1858年は、蝦夷地は幕府直轄地となった。
幕府の命により公式に巡検。
○1856年標津を訪れた武四郎が詠んだ歌。
「穐(あき)もはや 日数へにけん しべつ河 せにつく鮭の 色さびにけり」
[秋の深まる標津川、産卵時期を迎え鮭は、婚姻色(さび色)をだしている]
●松浦武四郎のアイヌに対する考え方。
言語風俗が相違しているだけで、和人と何ら変わらない民。
礼節信義は和人より厚い。
兄弟のような親近感が湧く。
明日の開拓もさりながら、今日のアイヌの命の救済も急務。
松浦武四郎は、異文化を理解し、正しく接することができた。
●松浦武四郎が出会った標津のアイヌ。
武四郎を道案内したメナシのアイヌたち。
チャシコツのイカシテレ 和名 伊助。
ベッカイのスキパツ 和名 助八。
シベツのノヤホン 和名 弥六。
クンネベツのサンゾ 和名 三蔵。
シュラのアヲフニ。 
○案内したアイヌのほとんどが、アイヌ名の他に和名を持っていた。
当時アイヌの和風化政策が行われていた。
根室地域は、改名率が高かった。
背景に、武四郎訪問70年前、1789年のクナシリ・メナシの戦いがある。
●クナシリ・メナシの戦いとは。
1789年。国後島と当時メナシと呼ばれた標津で起きた事件。
漁場での和人番人の横暴に耐え兼ねアイヌによる襲撃事件。
夷酋列像(いしゅうれつぞう)が描かれた。
殺害された和人 71名。
蜂起したアイヌ 130名。
うちノカマップ処刑されたアイヌ37名。
○コシャマインの戦い 
シャクシャインの戦いと比べると戦いの規模は小さい。
幕府は、戦いにより日本列島北辺に迫るロシアの存在をしる。
蝦夷地内国化の動きが活発化する。
●事件後の蝦夷地取扱いの変遷。
1789年。クナシリ・メナシの戦い。
1792年。ロシア使節ラクスマン来航。
1799〜1821年。前期幕府直轄。
1821〜1855年。松前藩復領。
1855〜1859年。後期幕府直轄。
1859〜1868年。東北諸藩分割統治。
<1807〜1809年。会津藩北方警備。
総勢約1,500名が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留>
●松前藩と幕府のアイヌ政策の違い。
○松前藩のアイヌ愚民化政策。
禽獣の類とみなす。
単純な労働力として使い尽くす。
日本語の使用・学習を禁止。
アイヌの習俗・慣習は放置。
○幕府のアイヌ和風化政策。
耕作技術を教え穀食を習わせる。
日本語を奨励。
儒教徳目を教え諭す。
身体風俗を日本風に改める。
●松前藩復領時代。1821〜1855年。
アイヌ愚民政策の復活。
松前藩士と場所請負人の癒着。
アイヌへの過酷使役。
○松前藩は蝦夷地各場所に勤番を派遣。
出張経費は場所請負人が負担。
勤番は出張経費で遊び歩いた。
●蝦夷地の痘瘡惨禍。
○蝦夷地の人口。
1822年.20,400人。
1854年。18,000人。
急激に人口減少。痘瘡による。
○コタンでは、全村のアイヌを山中に避難。患者から隔離した。
○武四郎の最初の巡検は、蝦夷地の痘瘡惨禍のとき。
●蝦夷地の痘瘡惨禍救済。
種痘医の派遣。
1855年。後期幕府直轄になる。
桑田立斎(くわた-りゅうさい)が派遣される。
根室会所領内で407名のアイヌが種痘を行う。
●武四郎時代に残る事件の名残り。
武四郎訪問は、クナシリ・メナシの戦いから約70年。
事件関係者と直接的つながりを認識するひとがいた。
●アイヌ和風化政策の実際。
武四郎が訪問したとき、根室地域で和名をもつアイヌが多かった。
幕府の対ロシア北方対策のひとつ
アイヌの撫育政策・和風化政策のため。
根室地域は重点地域だった。
○アイヌの間で和名が浸透はしていなかった。
○幕末の標津を描いた「標津番屋屏風」
1862年の標津の様子を描いている。
1859年から東北諸藩分割統治になる。
標津は会津藩の所領となった。
○「標津番屋屏風」に込められたメッセージ。
水産資源の豊かさ。
メナシの鮭は品質が高い。江戸に搬送された。
木材資源の豊かさ。
メナシのミズナラは、堅牢で。造船資材として使われた。
○アイヌは、ほのぼのとした感じで描かれている。
武四郎と関係ある加賀屋伝蔵と南摩綱紀の影響がある。
●加賀屋伝蔵。
1804年.秋田県に生まれる。
1818年.蝦夷地に渡る。
クスリ場所で飯炊き・帳簿手伝い。<クスリ 釧路>
アイヌ語を習得。
天保年間に、子モロ場所へ移る。<子モロ 根室>
ノツケで通辞役をつとめる。<ノツケ 野付半島>
1860年.シベツ場所 会津藩 大通辞。
1862年.支配人になる。
武四郎は、場所場所三役の五段階評価で伝蔵を高く評価。
武四郎が江戸にもどっても伝蔵とは交友が続いた。
書簡で何度も武四郎は伝蔵に「くれぐれも筋子を送ってくれ」と書いている。
○1861年。会津藩は標津に陣屋を建設。建設適地を伝蔵に相談。
伝蔵は、陽当たりよくアイヌも一番よいというホニコイを進言。
●南摩綱紀なんまつなのり。
1823年.会津若松に生れる。会津藩士。
26歳。江戸の昌平黌しょうへいこう入門。[昌平坂学問所]
黒船を見て洋学に励む。
1862年.蝦夷地代官を命じられる。家族とともに標津に赴任。
江戸で海防問題の第一人者は松浦武四郎。
南摩は、武四郎に通うようになる。
○三重県大台ケ原の武四郎分骨碑の撰文は南摩。
碑文。
蝦夷は北海道と改称され、
地名を定め今日の繁栄となっている。
松浦武四郎の功績が大きい。
武四郎は、志が大きい。知識は幅広い。
意気込みが鋭い。非常に勤勉で倹約。
人の当然なすべきことを正しいみちにあっては勇ましくふるいたつ。
重要なことを行うことがあれば大金をつかうことも惜しまない。
並大抵でないことを成し遂げた。
○南摩は、伝蔵の才覚を讃え「伝蔵の帰省を送る詩」をつくっている。
○南摩と伝蔵によるアイヌ語の教書。
南摩は、領民となったアイヌと相互理解しようとした。
お互いの文化の違いを学びあうことが大切と考えた。
和人の子弟は、五倫名義を教書としていた。
南摩は伝蔵に五倫教書をアイヌ語に訳してもらった。
南摩は訳した教書でアイヌを教育した。
<五倫とは人として守るべき5つの道
父子の間には親愛がある。
君臣の間には礼義がある。
夫婦の間には区別がある。
長幼の間には順序がある。
友との間には信義がある>
○視民如傷。
民を視ること傷めるが如し。
南摩は会津藩領蝦夷地代官として心がけたことは視民如傷のこころ。
傷ついてひとをみるように、人民をいたわった。
南摩は視民如傷を揮毫した。
標津のアイヌはその書を額に入れ標津の会所に掲げた。
会津藩が標津を去っても額は掲げられた。
その後、会所火事により額は焼失。
○文明の説。
日本弘道会叢記に南摩が記したコラム。 文明の説
明治時代日本人は、文明開化に沸き、無批判に西洋文化をとり入れていた。
しかし、真の文明は、人としての正実さをもち、必要な技術を吸収することと批判した。
<正実 正しく真実であること>
人としての正実さの例として、標津でのアイヌの価値観を紹介した。
●武四郎か出会った標津のアイヌのその後。
○現在、標津町内には、地域固有のアイヌ文化の後継者はいない。
○クナシリ・メナシの戦いや松前藩悪政が原因ではない。
幕末から明治までは伝統的アイヌ文化の姿が見られた。
○武四郎に共鳴した2人の和人、南摩と伝蔵。
武四郎が目指した「アイヌのための開拓」を実践した。
摂津のアイヌは、アイヌや和人の垣根を越えた日本人になった??
○伝統文化復興に向けた標津イチャルパ。
アイヌ文化伝統の先祖供養儀式「標津イチャルパ」
毎年行われている。
<クナシリ・メナシの戦いの犠牲者と、
史跡伊茶仁カリカリウス遺跡に眠る先人の
供養を目的とした祈りの儀式>
●標津のアイヌのルーツを探る。
○衣服は、アツシ・木綿衣・白いレタラペ。
[アツシ。樹皮衣。
オヒョウやシナノキなどの内皮繊維で織られた衣服。
レタラペ。草皮衣。
イラクサの繊維で織られた衣服]
○アイヌ文化は一様ではない。
○剛強なメナシアイヌの時代を象徴するチャシ跡。
根室海峡沿岸はチャシ跡が多い。
多郭連結型のチャシ跡の割合が高い。
[チャシ 台地に築かれた砦]
○伊茶仁カリカリウス遺跡を中核とする標津遺跡群。
縄文時代からチャシ跡が残された時代まで、人々が暮らしてきた場所。
○標津遺跡群の特徴、トビニタイ文化。
アイヌの地域集団の原型が生まれたとされる10世紀。
標津を中心とする根室海峡沿岸地域に栄えた文化。
古代北方文化のひとつ。オホーツク文化の担い手の末裔。
[7〜8世紀。オホーツク文化が道北・道東に進出。
9世紀。擦文文化が道北に進出。
道東のオホーツク文化は樺太から離れる。
道東のオホーツク文化は擦文文化の影響を受ける。
独自のトビニタイ文化になる。
13世紀。トビニタイ文化は擦文文化に同化し消失]
○現在、発掘調査により標津のアイヌのルーツを調査中。

■水戸藩の北海道支配。
講師。谷本晃久先生。北海道大学大学院文学研究科教授。
■アイヌの歴史・文化。
●アイヌ文化の基礎認識。
日本列島の基層文化。3+2+1+α。
○日本列島のことば。
アイヌ語。3つ。樺太方言。北海道方言。千島方言。
日本語。2つ。本土方言。琉球方言。
英語。1つ。小笠原諸島。
●もうひとつのアイヌ文化。本州アイヌ。
津軽半島・夏泊半島・下北半島北縁。
○北東北にアイヌ語地名分布。
日本書紀・続日本紀にも記載あり。
日本史と同度並行で紡がれてきたアイヌ史。
[日本書紀720年完成 続日本紀797年完成]
北海道 札幌・稚内。
サハリン ボロナイスク。
千島 国後・シュムシュ。
東北 比内[秋田] 札幌近郊 札比内駅[さっぴないえき]。
北関東 蛇尾川[さびがわ、じゃびがわ]栃木県。
常陸 比立内[比立内(ひたちない)秋田]
[天下野けがの 茨城。瓜連うりづら 茨城]
●北方領土問題。
択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島は、
第二次世界大戦後事実上ソビエト連邦(現ロシア連邦)に占領されている。
日本の固有の領土であり日本は強く返還を要求している。
1855年。日露通好条約。
[両国の国境を択捉島とウルップ島の間に定める。
ウルップ島より北につらなる千島列島はロシアの領土。
択捉、国後、色丹、歯舞の四島は日本の領土]
1875年.樺太千島交換条約。
<ロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを定めた>
1905年。ポーツマス条約。
[日露戦争の講和条約。遼東半島南部の租借権、南樺太などを獲得]
1951年。サンフランシスコ平和条約。
[日本は南樺太・千島列島を放棄する]
○樺太アイヌの言語。文化伝承困難。
○千島アイヌの言語。文化伝承途絶。
近代日露関係史の負の側面のひとつ。
●開拓の光と影。
本州からの移民の成功。
アイヌ民族のマイノリティ化。<マイノリティ 社会的少数派>
1804年 和人32,664人   アイヌ23,797人
1854年 和人63,834人   アイヌ18,805人
1873年 和人105,058人  アイヌ18,630人<開拓開始>
1900年 和人985,000人  アイヌ17,573人
1926年 和人2,437,110人  アイヌ10,524人 
[2006年。アイヌ 23,782人]
●アイヌ民族の土地の用益権を考慮しない開拓。
明治維新。北海道の設置。
国はアイヌ用益地を無主地とみなし、「原野」設定。
「殖民地」を選定し開拓移民へ割渡。
一定期間後検査、成墾の見込みあれば無償付与。
殖民地区画のとき、旧土人保護地設定。
上川盆地では、
アイヌは「旧土人保護」の名目で「保護地」に住むことを強要。
保護地は、0.05%にすぎない非常に狭い地所。
1899年.北海道旧土人保護法。
保護地を給与する措置。
アイヌの人々は教育し甲斐のない者として簡単な日本語教育を行う。
アイヌの言語・文化を否定。
●現在のアイヌ政策。
1997年。北海道旧土人保護法廃止。アイヌ文化振興法の成立。
2008年.衆参両院「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」全会一致採択。
2009年〜 アイヌ政策推進会議。座長 内閣官房長官。
事務局 閣官房アイヌ総合政策室。
2020年。国立アイヌ民族博物館が北海道白老町に開館予定。
■維新期の水戸藩による北海道支配。
徳川昭武公の狩衣。
<途中退席>