18/8/25 東海村 古文書と歴史を学ぶ会歴史講座 藩主斉昭帰国につき黒鍬奉公のこと。
講師 仲田昭一先生。
●照沼家文書「黒鍬召し状」1833年2月15日。
斉昭帰国に当たっての黒鍬奉公の依頼文書。
●黒鍬とは、
一般労役 川普請や新田開発。
水戸城普請。 
領内普請 川普請や新田開発。
水戸城手伝い 城番・家屋の修理・防火・掃除。
江戸城手伝い 城番・家屋の修理・防火・掃除。
畔鍬あぜくわともいっていた。
●幕末に、斉昭は、どのように領民に接したか。
江戸から水戸までは4日道中だった。
斉昭は、領民への負担軽減のため3日道中を考えた。
しかし、峰寿院 (斉脩なりのぶ夫人)見送りの願いがあった。
見送りのため出発時刻が遅くなり
3日道中はできなくなった。
江戸出発前の斉昭の歌。
みなもとの 清き流れを 継からは 
にこらぬものと 我ハまもらむ

斉昭は、質素倹約につとめ領民への負担軽減を考えていた。
質素倹約の斉昭に対する大奥の評判は悪かった。
●1833年8月巡村手記より。
配布資料義公・烈公と領民より。
・・・・巡村中、御昼食は腰兵粮にて好きと仰せられ、
すかりを仰せ付けられ、
日々御むすびを御腰へ付けさせらせ候故、
御供の面々下上となく残らず兵粮にて村々の蘇息莫大なり。
御羽織はサヨミ之御羽織を召させられ御紐も木綿打ちの御紐なり。
御近所勤めの面々も羽織地下し置かれ故着用御供致し候。
この巡村も、人足の大幅減、簡素な装具、
「握り飯」の腰弁当に質素な麻のサヨリの羽織を着ての旅であり、
領民の負担を最小限にしようと配慮されていました。
全てこれ「視民如傷之至意」(たみをみることいたむがごときしい)
から来るものでありました。
<上杉鷹山・南摩綱紀も「視民如傷」をいっている>
●6代藩主治保・瑞龍参拝時の水戸藩からの達し。
瑞龍並びに湊御殿又は郷中出御の節は、
人馬費えなど無きように。
尚更百姓痛まざるように荷物は随分軽めに荷造りさせ、
旅館も最寄りへばかりは申しつけず、
また場所によりては無理に旅館を申しつけることもあろうが、
諸事不自由になるので勘弁を乞い、
聊も権柄これ無きように。
菅谷村での歌。
此里の さかえしられて いもの子も 
数多に出て 見ゆる楽しさ

額田村での歌。
玉椿 千代の色香を 八十あまり 
四年は本の 初とそ見る

●斉昭は30才で藩主になった。
学問に専念する時間があった
●秋成新田 あきなりしんでん。
涸沼川が沼から川に変わる左岸一帯の水田。
秋成新田と呼ばれる。
<1835年大場村の願いにより斉昭が奉行に命じて開墾。
「秋成新田」斉昭がつけた>
[以下省略]