18/7/28 東海村 中央公民館講座 幕末と維新の水戸藩。 
永井先生。
■明治150年。
斉昭。
なぜ水戸藩が先駆けになったのか。
就藩回数の少なさ。
殿さまが水戸にいる時間が、長かった。
一円支配。
領地がまとまっている。
茨城は、旗本領・水戸藩・直轄領。
旗本領・直轄領で40%。水戸藩は限られていた。
内原は、水戸・旗本領かまざっている。
2代光圀・6代治保・9代斉昭。
御三家。
尾張・紀州・水戸。
水戸は官位が低い。
領地も狭い。
譜代大名。
領地が分散していた。
まとまった領地関東に。
極官(きょくかん)大納言 
亜相・中納言 黄門・参議 宰相(さいはょう)
斉昭も水戸黄門といわれていた。
2人元服させて義直・頼宣。あとで頼房。
秀忠になにかあったら義直・頼宣。
頼房は留守が多い。
家光・忠長が生まれる。3人の処遇の差。水戸家がひとつ官位が低い理由。
家光が水戸を重く見た時があった。
水戸家が作った水戸藩資料。
家光が水戸藩をきちんとした。
徳川の姓は、徳川本家が与える。
他は松平。
将軍らなるには徳川になる必要がある。
夫婦別姓。
同じは明治150年前。
光圀に官位。
左衛門督。
寛永13年。
御三家の出発点となる。
家光は3人を差別しなかった。
5代綱吉将軍になった時、光圀をいじめた。
官位に差がついた。
■就藩回数の問題。
定府制。
藩主は江戸にいること。
実は義務ではなかった。
参勤交代。
地方豪族が挨拶に行く。
頭を下げる儀式が大事。
豪族が権力者に頭をさげることが大事。
大名にとっては権力を見せつける目的もあった。
寛永12年。
参勤制度化。
外様大名向け。
譜代大名はどうしたか。
譜代大名は将軍のおひざ元にいること。
御三家については何もかかれていない。
天皇家-将軍家(徳川本家)-譜代・旗本・御家人。
将軍家の家来。
大きな大名のイメージ。
御三家・越前。
3Grで構成されていた。
幕末、外交、国土防衛になると
将軍家だけですべてが協力でやっていこう
井伊は、譜代だけで。
そうではない。
全部がオールジャパン。
そこで慶喜がかつぎだされた。
参府。
江戸にかえった。
御三家。
紀州藩主徳川慶福よしとみ。
一回も和歌山にいっていない
未成年は、江戸を離れてはいけない。
国元に帰るのは21?才以上。
5代宗翰(むねもと)。
水戸からなかなか江戸に帰らなかった。
親子で江戸をはなれることはできない。
光圀・綱条一緒に水戸にいない。
吉宗のころから、江戸に住む藩主が多かった。
妻子は江戸。
幕末。藩主は江戸で将軍を守る意識が強くなる。
■水戸藩領位置。
かすみがうら・潮来が飛び地。
佐竹対策。
水戸以北は佐竹の本拠地。
河川交通の要。
那珂川・久慈川。
物資を河岸で運ぶ。
東北・北関東を押さえる位置。
涸沼がポイント。
霞ヶ浦・北浦・利根川。
江戸へどのように物資を安全に運ぶか。
利根川を工事した。
霞ヶ浦と北浦をつなごうと何度も行った。
江戸商人が金をだした。
■光圀。
光圀 大日本史編纂 
天皇105人・人物2,415人の伝記。
日本書紀。 
悪は滅ぶ 正義は勝つ。
正しいものは栄え悪は滅びる。
因果応報。
南朝正統論。
後醍醐天皇 楠・新田。
北朝 足利尊氏。
光圀は南朝が正統ととなえた。
新田の子孫が徳川。
徳川は家康が官位をもらうためにつくられた。
足利尊氏は悪。
当時は北朝の流れだった。
尊王。
幕府が尊王。
尾張義直。
将軍に勤皇をさせるのが水戸のスタンス。
蝦夷。斉昭が北海道となづけた。
が、伊勢の探検家松浦武四郎が命名したとされている。
光圀は、快風丸を蝦夷地探検のために作っている。
■6代 治保(はるもり)。
治保の子・松平義和から
徳川慶勝・松平容保へと血筋がつながる。
徳川御本家18代当主は、会津の血をひいている。
立原翠軒・藤田幽谷。
御三家が幕府のことに口をいれていく、介入。
朝鮮・ロシアと紛争があった。
小さい戦いがあった。
積極的介入。
幕政に対して介入することは無かったが、
治保は、介入していった。
意識が変わっていた。
大日本史は、現実の政治に対して考えるようになった。
現実の社会でどう取り組むか。
治保のときに大変換があった。
歴史学から政治学になってきた。
治保なければ水戸学なし。
藩校には大日本史は配布されていた。