18/7/28 東海村 「古文書と歴史を学ぶ会」歴史講座 
南北朝の内乱と小野崎氏。
軍忠状からみる中世。
宮内先生。
東海村中央公民館。
■小野崎氏について。
秀郷流藤原氏の常陸土着。
平安時代末に久慈郡太田郷に入る。
■鎌倉期の小野崎氏。
佐都西郡小野崎郷に土着
[現在の常陸太田市瑞龍] 
小野崎氏の成立。
■南北朝期の小野崎氏。
山尾小野崎氏 山城守 14世紀後半。
小野崎氏の総領家。
小野崎通春 
山尾城[現在の十王町友部]を拠点とする。
山尾小野崎氏の成立。
■室町期の小野崎氏。
○額田小野崎氏。
佐竹氏一族[宿老]額田氏は山入氏と提携。
鎌倉公方足利利持氏・佐竹義憲の攻撃により
額田氏は滅亡[1423年]
小野崎通重が額田家を継承し額田城を拠点とする。
額田小野崎氏の成立。
■軍忠状「烟田文書」を読む。
○軍忠状。
鎌倉時代から、南北朝時代、
戦国時代にみられる中世武家文書。
蒙古襲来以後にその原初的形態の軍忠状。
従軍・戦闘の報告。
軍勢催促を受け一族郎等を率いて所定の場所に到着。
着到状の提出。
合戦の場所・勲功の概要・敵を何人討ったかなどを報告。
自分自身や一族郎等のこうむった被害を上申。
■烟田文書は、烟田氏が意識して残したもの。
古文書を見る時は、
なぜ古文書が残ったかを考えてみるとよい。
■目安[訴状]
常陸国鹿嶋郡烟田又太郎時幹軍忠事
 [戦で活躍したことを申し出る。申告する]
[朝廷が2つあった時代。
京都 北朝 光明天皇。
奈良吉野 南朝 後醍醐天皇。
烟田氏は北朝佐竹についた]
右吉野没落人北畠源大納言入道以下凶徒等
 [南朝 北畠親房]
海路を経て当国東條の庄着岸 
誅伐せんが為はっこうせらるの間
時幹まかり向かうのところ 
今年建武5年10月5日[1388年]
神宮寺城に押し寄せいたす
[佐竹は北朝側についていた。
烟田・小野崎も]
至極合戦をいたすのところ 
若当 新堀修理鹿公夏右脛に傷を被りおわんぬ。
[傷をこうむりました。
若当 リーダについている有能なひと]
此じょう[このことについては]
あずかり御実検にあずかり
[偉い人の確認をうけています。
検証してもらっている]
[武士は褒美をもらうため現地に行く] 
[褒賞の いのちを落とす。怪我をする]
次いで家子[家の子]鳥栖太郎三郎貞親
壁を切り破り場内に攻め入り[戦いで証言してもらう。
戦いを見ている人がいる]
散々の合戦をいたし
切り捨ておしめおわんぬ
小野崎次郎左衛門尉おわんぬ
[小野崎氏は佐竹についている。
証言能力のある人でなければいない。
佐竹武士団でそこそこの地位についている]
敵のところ阿波崎城を攻め落としました。
かくのごとく 
他に異なる 軍忠をぬきんざるところは 
ご注進あずかり[大将に報告してほしい]
ごしょうはんをたまわり[証明をいただきたい]
ため こうごの じょうこと きけいにそなえんがため
[恩賞をもらうため]
建武5年10月日 
うけたりたくおわんぬ
■1〜2カ月後に恩賞の手続きに入る。
大将は全体のバランスを考え恩賞を与える。
小野崎は証定できるひとだった。
烟田は、恩賞を請求する。
在判
承了
正文[しょうもん] 写しをとっておく
あん文[案文] 
何通か同じものを作っておく。
写しとは別。あん文は使われていた。
鎌倉・南北朝 軍忠状があった。
■恩賞の基準。
死[いちばん高い] 
分捕 身分の高い相手の首をとる
怪我をした。
さきがけ
[証人が必要。事前につくっておく]
褒美をもらうのに軍忠状が必要。
褒美をもらえないと離れる。