18/7/21 笠間市稲田 西念寺夏の市民大学講座 悪の思想・お浄土はどこにあるのか。
伊藤先生・筑波大学教授。
相承と革新 法然聖人から親鸞聖人へ。
悪の思想・お浄土はどこにあるのか。
伊藤益・私釈親鸞・北樹出版を参考にはなしをきいた。



■善人なおもつて往生を遂ぐ。
いわんや、悪人をや。
悪人正機説。
○知恩院開基の勢観房源智。
「法然上人伝記」で、
「善人尚以て往生す、況や悪人をやの事。
口伝これあり」
法然上人が少なくとも先に言っている。
○承元の法難で、
興福寺奏状を起草した法相宗・貞慶。
著作「地蔵講式」のなかで、
「悪人かえつて善人に超ゆ」といい、
地蔵菩薩の救済力は善人よりも悪人に働く、という。
○悪人正機説は、
親鸞の独創ではなかった。
悪人正機説は、
他力浄土門・自力聖道門ともに一般的倫理だった。
○親鸞の独創は。
「自力作善のひとは
ひとへに他力をたのむこころに欠けたるあひだ、
弥陀の本願にあらず」
善人が弥陀の本願の対象にならないとてっている。
法然・貞慶はそのようにはいってない。
倫理的・道徳的にみれば、
悪人が往生でき、
善人が往生できないことはおかしい。
これは「破壊の論理」。
○研究者による3つの解釈例。
○[例1]
歎異抄以外に悪人正機説を説くものはない。
悪人正機説は、歎異抄筆者の考えだ。
[説明に無理がある]
悪人正機説は、当時の仏教界の常識だった。
末燈抄に、親鸞は、関東の弟子に、
悪いことをしてはいけないと手紙を何度も出している。
親鸞が関東にいる時、
門弟に口頭で悪人正機説を説いた。
それが誤解され、
増悪無礙の立場に立つものが現れた。
それを手紙で戒めている。
親鸞は悪人正機説を説いている。
○[例2]
善人は、公家・上級武士などの富裕層。
悪人は、狩猟民・漁民・農民などの貧困層。
親鸞は弱者の立場で悪人正機説を説いている。
[説明に無理がある]
公家・上級武士などの富裕層は、
往生できない。
貧困層は往生てきる。
これは、逆差別になる。
仏教は、衆生の平等を説いている。
親鸞は、貧富の別なく、
自分の悪に苦しむものの救済を説いた。
○[例3]教行信証冒頭に、往相還相が書かれている。
親鸞の主たる関心事は、往相・還相二種回向にあった。
悪の思想について考えることは、意味がない。
[説明に無理がある]
親鸞は世親(天親)・曇鸞を敬仰していた。
曇鸞は往相・還相二種回向を強調した。
親鸞の生涯をかけた課題のひとつが
往相・還相二種回向にあった。
しかし、親鸞は教行信証信巻で
悪の問題について1/3をつかい書いている。
「王舎城の悲劇」である。
親鸞の意図は、
親殺しをおこなうアジャセのようなものであっても、
みずからの悪行を悔悟するならば
必ず救われることにある。
親鸞は悪の問題を生涯の課題としていた。
○覚如口伝抄。
北条時頼が9才・開寿と名乗っていたころ。
幕府の命により、一切経の校合が行われた。
63歳の親鸞も参加していた。
校合がひと段落し、酒食の供応があった。
親鸞を除いた多くの僧が、袈裟を脱いで食した。
親鸞は袈裟を脱がなかった。
開寿は親鸞になぜ袈裟を脱がないのか聞いた。
親鸞は答えた。
「たまたま私は人間の身に生れた。
他の生き物のいのちを奪い
肉などを食べることは本来あってはならない。
食べものたちを袈裟の力によって
解脱させてやりたいとおもう。
だから袈裟を着てたべている」
親鸞は、食べ物含め、
生き物には仏性があると考え
如来蔵思想にたっていた。
人間は生きるためには、
他の生命体を殺して食べざるをえない。
人間の存在が悪である。
「唯信抄文意」で
「屠はよろづのいきるものをころし、
はふるものなり。
・・・沽はよろづのものをうりかうものなり」
といっている。
人間は、排除の構造の中で生きている。
生きるために、他の動植物を殺して食べている。
だから人間は悪人である。
善人などは存在しない。
善人を自称するものがいたとしても、
そのひとは自己の本性を見定めていない人。
無自覚な悪人にすぎない、
無自覚な悪人は、
弥陀の本願の対象にはならない。

■お浄土はどこにあるか。
○法然。選択本願念仏集。
臨終のあとの世界。
1212年 法然入寂。
伝記には、
臨終に阿弥陀仏と聖衆の来迎に出会い、
往生してさとりを得る。
法然上人行状絵図。
入滅を迎えた法然上人のもとに、
三尊仏が来迎。
○歎異抄第9条。
親鸞聖人85歳以後の考え。
唯円が、念仏を称えても、
うれしい気持ちが湧いてこない。
急いで浄土に往きい気持ちになれない。
と、親鸞に問うた。
親鸞は「私も同じ」とこたえた。
それは 煩悩の為とこたえた。
弥陀に導かれ浄土に往生するのは、
臨終時に起こると考えていた。
臨終往生説を考えていた。
○しかし、親鸞79歳のとき、
関東の門弟へ書を与えている。
他力の行者は、
弥陀の摂取不捨の本願のため、
すでに往生することが確定した
正定聚の位についている。
現世にありながら往生するという
即得往生説の認識がしめされている。
○親鸞85歳のとき
「一念多念文意」で述べている。
わたしたちは、
真実の信心を得た瞬間に
すでに往生することが決まった位に就いたことになる。
それが往生を得ることだ。
即得往生説の認識がしめされている。
○唯円への回答と一念多念文意では、
矛盾がある。
これは、親鸞の対機説法による。
唯円は、若い。
若者は現世にやりたいことが多くある。
親鸞は唯円が、
理念と現実のはざまで苦悩しているのをしり、
慰撫した。
○わたしたちは、
この世に生きながらにして
すでに往生が決まった位に就くのであって、
そこにつくことは往生である、
というのが親鸞の浄土観の根底をなす思想。
○「永遠の今」が浄土と思うようになった。
(伊藤先生の現在の浄土観)