18/6/24 常陸大宮市北塩子 文書館カレッジ 
佐竹東家と常陸大宮地方。 
常陸大宮市緒川総合センター文化ホール 
大正大学 佐々木先生。
佐竹氏、東家の活動を義久を中心にした話をきいた。
佐々木先生・関係者のみなさまありがとうございました。
■戦国時代の佐竹氏。
佐竹三家の活躍。

東家が常陸大宮市山方城(御城)の城主と伝えられているが、
確たる資料は見つかっていない。
東家・北家・南家があり西家はない。
これは、単なる方向だけでない意味があるか?
■佐竹東家とは何か。
〇佐竹義篤の家督継承。
1517年 佐竹義舜の死。
義篤1507年生まれで幼少だった。
叔父義信・政義が補佐・代行が行われた。
義信・政義は、一族で最上位の地位だった。
義信とその子孫は、御北。
政義とその子孫は、御東。
義舜の子、義隣とその子孫は、御南。
住居の方角を指すという伝えがあるが、
確定できない。
〇義堅と義喬。
那須進出 確認できない。
南奥進出。 
羽黒山城(福島県塙町)・寺山城(棚倉町)に在番。
〇義久の東家継承。
義喬 1571年まで活動を確認。
以降確認できない。
1572年 義久による東家家督の継承。
〇1578年 義重次男義広の白河氏入嗣(にゅうし)決定。
1587年 白河義広の葦名氏入嗣実現。
伊達氏と対峙。
■佐竹義久と豊臣政権。
1576年 義重 常陸介補任・義久 山城守補任。
1584年 秀吉と交渉。
1590年 小田原合戦 秀吉への佐竹氏拝謁。直臣待遇の獲得。
〇豊臣政権下の義久。
鹿嶋への配置換え。
直臣待遇の義久 豊臣政権への外様大名への対応。
佐竹氏から完全に独立したわけではない。
6万石所領の獲得。
■常陸大宮地方。
〇那珂川流域 
南北朝期に分出(ぶんしゅつ)した庶子家の所領が分布。
山入氏の一族小田野氏 大宮市域を苗字の地とする。
〇東家家臣。
秋田に随伴した家臣層。
大窪・国安・高部・江川氏等。
常陸に残留した家臣層。立原氏等。
■常陸大宮地方と佐竹氏の関りで、
わからないことが多い。
現在進めている、常陸大宮市史の編纂の過程で解明したい。
■豊臣秀吉朱印状写(佐竹文書) 佐竹知行割之事。
・25万石 佐竹義宣 
・5万石 佐竹義重 
・6万石 佐竹義久 
・16万8,800石 与力家来分
・1万石 豊臣蔵入分 
・1,000石 代官分(佐竹義久) 
・3,000石 石田三成分 
・3,000石 増田長盛分
計 548,800石。 1595年。