18/6/17 水戸市酒門町 酒門共有墓地管理委員会歴史講演会 水戸と彦根。
講師 仲田先生。
以下の話があった。
仲田先生・関係者の方々に感謝します。ありがとうございました。
■安政の大獄を起こした大老井伊直弼への憤りは、
桜田門外の変になる。
その後、水戸と彦根の対立は続いた。
しかし、明治初期に彦根藩日下部鳴鶴は、
水戸藩石川徳五郎の顕彰墓碑を書いている。
顕彰墓碑は、酒門共有墓地にある。
■江戸時代の朝幕関係。
〇対朝廷。
禁裏御料3万石・公家7万石。
禁中並公家諸法度。
京都所司代。
武家伝奏。
〇対大名・諸家。
天領400万石。
旗本領300万石。
武家諸法度。
幕藩体制・・・御三家・御三卿・親藩・譜代・外様。
〇江戸城溜間詰。
溜間詰は、神君家康公以来の家臣。
幕政を担う責任感があった。
彦根藩 井伊家35万石・
会津藩 松平家23万石・
高松藩 松平家12万石・
小浜藩 酒井家10万石・
忍藩 松平家10万石・
桑名藩 松平家11万石・
姫路藩 松平家15万石・
松山藩 松平家15万石・
岡崎藩 本多家5万石・
庄内藩 酒井家14万石。
庄内藩は戊辰戦争で、最後まで戦った。
■井伊直弼と尊王。
〇井伊家は尊王。
井伊家伝来の京都守護密命への自負。
皇室の守護と西国非常時の押鎮。
1851年
直弼は、家督相続後初の彦根入り。
途中、浜松に泊宿。
井伊谷 龍潭寺に寄る。
宗良親王と祖先の墓を参詣。
1338年、
宗良親王・義良親王は、北畠親房に奉じられ、
伊勢・大湊からより陸奥国府へ海路を進んだ。
座礁して遠江に漂着。井伊谷城主に身を寄せた。
〇相模湾警備の任から外国の海軍力想定し避戦論へ。
1847年
直亮、相州警備を命ぜられる。
直弼、井伊家は京都守護の家格なりと憤慨。
1853年
相州警備から羽田・大森警備になる。
1854年
羽田・大森警備から京都守護になる。
〇徳川光圀家訓と井伊家尊王の相違。
水戸の尊王敬幕。
彦根の朝廷監視役・大政委任論。
〇祖法改革。
1853年
朝廷奏聞・伊勢神宮以下諸社勅使派遣・
日光東照宮に神慮を伺う。
■幕府の朝廷包囲網。
外様大名の朝廷接近阻止体制。
京都を
小浜・越前・彦根・大垣・桑名・尾張・紀伊・松山・姫路で包囲。
加賀前田・仙台伊達・米沢上杉・薩摩島津・長州毛利を近づけない。
1787年
飢饉の影響、
京都市民は御所千度参り。
天皇救米を幕府に要請。
1846年
孝明天皇の海防勅諭。
1854年1月
岩瀬忠震、老中阿部正弘を補佐。
開国論主唱。
1854年3月
米和親条約。
橋本左内・西郷隆盛江戸へ。
藤田東湖と交流。
1854年4月
斉昭海防参与辞職。
将軍継嗣問題・条約勅許問題が錯綜。
紀州派・一橋派の奔走。
1855年 8月
老中首座阿部正弘。
斉昭が幕府参与。
1855年10月
安政の大地震。
藤田東湖・戸田忠敞圧死。
■通商条約の締結と安政の大獄。
〇日米修好通商条約交渉。
1856年7月 ハリス下田着任。
幕臣 永井尚志・岩瀬忠震・鵜殿長鋭・川路聖謨ら
開国の国是に方針転換。
1857年12月
日米修好通商条約草案審議、
合意終了。
1858年1月
老中堀田正睦上京。
岩瀬・川路らが同行。
勅書拝領依頼。
朝廷は拒否。
ハリスに、3月調印予定を7月に延期要請。
〇1858年4月
井伊直弼大老就任。
[井伊直弼の外交論]
1853年6月
鎖国の祖法をかえるべからず。
1853年8月
祖法墨守すべからす。
祖法改変には、
朝廷に奏聞し、伊勢神宮以下諸社に勅使を、
日光東照宮に幕府の使者を立てて、深慮を伺うべし。
1857年
米国の要求拒否不可。
出交易論主張。
1858年1月
開港是認。
1858年5月
慶福将軍内定。
1858年6月
米修好通商条約無勅調印。
1858年6月 慶福将軍決定。
斉昭・慶篤・尾張慶恕・慶永ら不時登城抗議。
1858年7月
斉昭謹慎・慶篤登城禁止・慶恕・慶永ら隠居謹慎。
1858年7月
島津斉彬死去。
■井伊直弼の決断(安政の大獄)
〇1858年8月
水戸藩に密勅降下。
武家伝奏万里小路正房(までのこうじ なおふさ)
→水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門→
鵜飼幸吉水戸へ。
9月
梅田雲浜(小浜藩)捕縛。鵜飼吉左衛門・幸吉父子拘禁。
10月
橋本左内(越後藩)捕縛。
11月
吉田松陰(長州藩)拘禁。
西郷隆盛・僧月照入水。
(西郷蘇生、翌年大島流罪)
住谷寅之介・大胡聿蔵だいごりつぞうら奉勅義挙遊説に土佐到着。
坂本竜馬らと会見。
〇水戸領民の小金屯集。
第1次 1858年。
1859年4月
家老安島帯刀禁固。
茅根伊豫之介訊問。
第2次 斎藤監物ら神官116名の署名→抗議南上。
〇断罪・処罰。
1859年8月
斉昭水戸永蟄居。
慶篤登城禁止。
家老安島帯刀切腹。
茅根伊豫之介・鵜飼吉左衛門死罪。
鵜飼幸吉獄門。
鮎沢伊太夫国維遠島。
1859年9月
関鉄之介ら京都青蓮院門主らに義挙の趣意書。
幕府、小金など水戸藩残留土民の退散命令。
1859年10月
橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰処刑。
1860年7月
桜田門外の変→幕府の衰亡へ。
■石河徳五郎幹忠。
1796年〜1857年病歿。
水戸藩藩主 8代斉脩なりのぶ ・9代斉昭・10代慶篤に仕える。
1829年
藩主継嗣問題で、斉昭擁立に奔走。
西郡奉行・勘定奉行・北郡奉行歴任。
斉昭隠居謹慎のときは、斉昭宥免に奔走。
1853年
ペリー来航以後海防参与で復権した斉昭のもと奥右筆となる。
1855年
上京。
斉昭の姉鄰姫が嫁した鷹司雅通や公卿らと交流。
将軍継嗣問題・条約勅居問題などの打開に奔走。
京都留守物頭になる。
謹厳実直な人柄から内大臣三条実方の知遇を得る。
孝明天皇の知る処となる。
1857年
反射炉建設を担当。
〇篆額
三条実方の子 実美が幹忠の墓碑に篆額を贈っている。
〇撰文。
川田剛による。
川田剛は、備中岡山に生れ松山藩に仕える。
山田方谷門下。
三島中洲と並んで方谷門下の双璧。
漢文学の大家。
川田に撰文を依頼したのは五男幹文。
川田は幹忠を知らなかった。
かつて、藤田東湖の「回天詩史」のなかに幹忠をみつけた。
東湖と幹忠は、「三英」といわれ、
東湖はよく幹忠をしっていた。
〇書。
日下部鳴鶴による。
日下部鳴鶴は、彦根藩士田中惣右衛門の二男。
1859年
惣右衛門の実家日下部家の養子になる。
1860年
養父日下部三郎右衛門は、井伊直弼登城の供頭。桜田門外の変で惨殺。
日下部鳴鶴は、中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆。