18/5/26 東海村 「古文書と歴史を学ぶ会」歴史講座 
石神組御用留 御郡方手代川又惣蔵褒賞の件。
仲田先生。東海村中央公民館。
以下のようなはなしがあった。
「石神組御用留」御郡方手代 川又惣蔵褒賞の件
■(260)藤田次郎左衛門廻状。
〔郡方手代川又惣蔵精勤により褒賞につき〕
郡方手代川又惣蔵は、
浜田組に属する大戸村(現在茨城町大戸)のひと。
川又惣蔵は、水害に対しての川筋の整備をした。
川又惣蔵は、褒賞された。褒賞金100疋。
浜田郡奉行、藤田次郎左衛門は9郡あての廻状をだした。
■(223)藤田次郎左衛門書状。
〔上高場村喜衛門三男清五郎刃傷事件につき〕
上高場村の清五郎が、脇指で怪我をさせた。
その場は逃げたが生家にいるところをつかまった。
郷牢に入獄した。
浜田郡奉行藤田次郎左衛門より石神郡奉行加藤孫三郎への書状。
■(224)藤田次郎左衛門書状
〔留村川欠につき問合わせのこと〕
浜田郡奉行藤田次郎左衛門より石神郡奉行加藤孫三郎への書状。
■(369-2)藤田次郎左衛門触書。
〔西本願寺教諭使僧領内巡行につき〕
西本願寺より門徒に対して、おしえのため、使いの僧が領内をまわる。
東本願寺は勿論のこと他宗のものへは教えをしないようにすること。
■浜田郡奉行藤田次郎左衛門は、藤田東湖の父、藤田幽谷。
藤田幽谷。
1774年水戸に生れる。父の仕事は古着屋。
1783年ころ。立原翠軒に入門。
1803年。立原翠軒退職。師弟関係ほとんど絶える。
1806年。藤田東湖が幽谷の次男として生まれる。
1808年。浜田奉行となる。
1812年。郡奉行退任。
1821年。藩政の腐敗と外国船の出没を憂い、
哀公斉脩(なりのぶ)に改革を建言。
1824年。大津浜英人上陸事件。
1826年。幽谷亡くなる。
藤田幽谷の尊王攘夷観。
1808年.戊元旦の詩。
藤田幽谷の元旦詩

春来一夜斗杓を廻らす
北顧却(また)愁う胡虜の驕るを
筆を投じて自ら憐む班定遠
家を忘れて誰にか似せむ霍嫖姚(かくひょうよう)
長蛇応(まさ)に畏(おそ)るべし神兵の利
粒食曽(かつ)て資す瑞穂(みずほ)の饒(ゆた)かなるに
宇内(うだい)の至尊天日の嗣
須(すべから)く万国をして皇朝を仰がしむべしと
■以下はhp制作者なりの訳。
春が来て、北斗七星に思いを馳せる夜。
北辺の地を顧み、ロシア人の横暴を憂いる。
文筆を投げ捨て、後漢の武人、
班定遠のようになりたいができない。
家を忘れて誰かに、
前漢の武将、霍嫖姚に倣ってもらいたい。
ロシアは恐るべきだが、我が国には神兵の力がある。
我が国はむかしから瑞穂の国とよばれ穀物も豊かである。
世界で最も尊い天皇の国である。
世界の人々から仰がれるようにすべきだ。