18/5/20 水戸市酒門町 酒門共有墓地管理委員会歴史講演会 水戸藩家臣団と伊達政宗。
講師 仲田昭一先生。
水戸藩家臣団と伊達政宗と題し以下のような話があった。
仲田先生・関係者の方々に感謝します。
ありがとうございました。

■伊達政宗の起請文について。
1589年10月。伊達政宗は、
額田小野崎昭通に、起請文(密書)を送る。
起請文は、熊野権現護符 
牛王宝印紙の紙背にかかれたもの。
花押・血判のがある。
震災後にひたちなか市の土蔵の箪笥からみつかった。 
伊達政宗の起請文には、
協力すれば那珂川以北の領地を与える。
なにか不都合が生じた場合は、面倒をみる。
■起請文発遣の背景。
1585年。人取橋の戦い。
佐竹氏・蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の戦い。
伊達勢逆転勝利。
1587年。佐竹義重の次男義弘が葦名氏の家督を相続。
1588年。[佐竹・葦名・二階堂・白川結城・石川・磐城]と
[伊達・田村・浅川]の戦い。
1589年5月。額田の乱。
江戸重通「江戸千騎」と額田小野崎篤通・昭通「七百騎」。
1589年7月。秀吉は関東・奥両国惣無事令違反として
佐竹・上杉に伊達氏討伐を指令。
1589年10月。伊達政宗は、額田小野崎昭通に、
起請文(密書)を送る。
1590年1月。北条氏直、
伊達政宗に書を送り佐竹氏挟撃をはかる。
1590年5月。佐竹義宣が小田原参陣。
額田氏は、一旦佐竹義宣に服し、従い参陣。
1590年6月。石田三成・佐竹義宣他忍城攻め。
映画「のぼうの城」の城。
1590年7月。小田原落城。後北条氏滅亡。
秀吉は佐竹義宣に領国内支配を保証。
佐竹義宣は、領国拡大を図る。
1590年12月。佐竹義宣が江戸重通攻略。
1590年12月。佐竹義宣が府中大掾攻略。
1591年2月。佐竹義宣、南方三十三館領主謀殺。
鹿島・行方郡・麻生・烟田・玉造などの領主が謀殺された。
以前、烟田の方に
今も佐竹氏を恨みに思っている旨をきいた。
1591年2月。佐竹義宣が額田小野崎昭通攻略。
額田小野崎昭通は、退避行となる。
天徳寺から那須黒羽の大関氏にいく。
その後、日光中禅寺へいく。
伊達政宗により伊達家にいく。
伊達政宗は、
起請文「なにか不都合が生じた場合は面倒をみる」を実行した。
佐竹義宣は、南方三十三館領主謀殺を行っている。
両者の資質が明らかになる。
伊達政宗は、義に厚い。
伊達家では、額田氏は所領3,000石。
1614年.額田氏は松平忠輝家臣として参画。
1618年。額田氏は水戸徳川頼房に招聘される。
額田九兵衛昭通として仕官する。
知行地600石。水戸城下田町水門に屋敷を拝領する。
額田氏墓地は、
4代までは本米崎の上宮寺にあった。
5代のとき水戸の共同墓地に移る。
■水戸徳川頼房のこと。
家康の11男。
歴代の水戸城主。
武田信吉(家康5男15万石→
コ川頼宣(20万石)→
頼房(1609年25万石)→
光圀(1661年28万石)→綱條(35万石) 
■水戸藩家臣団の構成。
徳川家康付の家臣・
旧武田家・後北条氏・佐竹氏などからの混成だった。
地元の勇者として額田昭通が迎えられている。
■慶長期(1603〜1614年)。
登用数 176人 4割が武田氏の旧臣。
〇武田氏旧家臣。
武田信吉歿後 33名は水戸藩に残る。
他は江戸へ。
芦沢伊賀守信重。城代になる。
望月五郎左衛門恒隆。笠原水道施設奉行。
武田改め跡部君表は、武田耕雲齊の祖。
〇後北条氏旧家臣。
中山備前守信吉。附家老。
〇頼房附き。
岡崎平兵衛綱任。祖父は浅井長政の庶兄。
伊藤玄蕃友玄。
三木仁兵衛。播磨赤松氏の旧家臣。
朝比奈右衛門尉泰雄。今川氏→後北条氏旧家臣。
市川三左衛門重時。
■元和期((1615〜1623年)。
登用数 205人。駿河・江戸で奉仕したものが水戸へくる。
〇後北条氏旧家臣。
岡見甚内経吉。牛久城主の子。
鈴木石見守重好。5,000石。三河出身。
水野弾正少弼分長。三河刈谷城主の子孫。
〇徳川一門の改易による家臣らの登用。
松平忠輝改易。
家臣27人が水戸へくる。
額田久兵衛照通。600石。
昭を照と変更している。
佐竹氏家臣・江戸氏系→松平忠輝→頼房
■寛永期((1623〜1643年)。
登用数 218人。旧佐竹氏家臣など。郷土制度を採用。
山野辺右衛門大夫義忠。最上義光第4子。
山野辺家の墓所は瓜連町常福寺にある。
宇都宮弥三郎国綱・高綱父子。宇都宮城主子孫。
■1668年の状況。
1000石以上 30人。
700〜1000石 11人。
500〜700石 20人。
家老職18人の禄高 6万石超。
光圀の弟4人・甥ら光圀一族6名の禄高 1万6200石。
家臣数 3,000〜5,000人。
■分家4藩。
高松藩。12万石。
守山藩。2万石。福島県郡山市。
府中藩。2万石。石岡市。
宍戸藩。1万石。笠間市。