12/10/20 常陸太田市東連地町 
青蓮寺 真宗本願寺派。 
皇跡山極楽院。
二十四輩 第八 性證房。
670年から2年間ほど、
親王であったころの天武天皇が留まり、
後に仏像や聖徳太子像を安置した。
500年後、
周観上人が天台宗を伝え、
皇跡山極楽院瑞巌寺とした。
1205年、畠山重忠の第2子、畠山重秀は、父が殺され出家。
常陸にきたときに、
当山の太子堂に泊り、太子の夢を見て、
お告げにより親鸞の弟子となる。
法号を性證とあらためた。
1218年、性證は、再訪し、
境内を整え、堂宇をたてて浄土真宗のお寺とした。
その後、青い蓮の夢を見たことから、青蓮寺と改めた。
(パンフレットより)




性證房像

本尊 阿弥陀如来像。





青蓮寺には、
豊後国二孝女物語(ぶんごのくににこうじょものがたり)
のはなしがある。
実話である。   
写真の絵はパンフレットより。
以下は、橋本留美さまのかかれた
「実話 病父を尋ねて三百里 豊後国の二孝女物語」
を参考にさせていただきました。
豊後の国孝女 「つゆ」 と「とき」  

つゆとときは豊後の国、泊村の川野初右衛門の娘。
つゆが7才、とき4才のとき、母が病気でなくなる。
ふたりの姉妹は働き者の少女に成長。
つゆ14才のとき、
近くの内平村の農家の青年、首藤直八と結婚。
貧農で、夫の直八は家を出て奉公人として働く。
舅と姑は、病気がちだった。
つゆは、農作業をしながら、二人を懸命に介護した。
父初右衛門には、足の痛みがあったが、
日々農作業に励んでいた。
浄土真宗(一向宗)の信徒だった。
知人の七衛門が訪ねてきた。
「全国の親鸞聖人の遺跡を巡拝したい。
一緒に訪ねてみないか」と誘われた。
熱心な信徒だった初右衛門は、
妻の供養巡礼のためにも、巡礼することにした。
12歳になった娘のときは、
実家に預かってもらうことにした。
1804年、七衛門と一緒に巡礼に出発。
京都、信濃、越後、上州
・・・足の痛みをこらえながら歩く。
草津温泉で、
初右衛門は足の治療のため逗留。
七衛門と別れる。
(七衛門は翌年には臼杵に戻る)
初右衛門は、東北、常陸の国と巡礼。
徐々に足がわるくなってくる。
ついには、青蓮寺に着いたときに、歩けなくなる。
青蓮寺の住職夫妻は、寺で静養させることにした。
しかし、初右衛門の足は悪くなるばかり。
住職は、境内に一室をつくり、初右衛門を寺で生活させることにする。
初右衛門は、仏門にはいり教西と名乗る。
住職、坊守、寺男などに手厚く看護してもらう。
治療は、村の医者、猿田玄石がおこなう。
村の多くの人が心配して、
食べ物などを持ってきてくれた。
初右衛門は、
「いつまでも世話になってはいられない」
と思いながら月日は過ぎていった。

1811年、京都西本願寺で、
親鸞聖人550回忌が開かれた。
そこで、青蓮寺住職と初右衛門の菩提寺住職が出会った。
青蓮寺住職は、初右衛門の菩提寺住職に、
初右衛門が病に倒れ7年になることを伝えた。
初右衛門の菩提寺住職は、臼杵に帰り、
初右衛門のことを家族に伝えた。
知らせを聞いた初右衛門の娘つゆ(22才)ととき(19才)は、
周囲に反対されたが、父に会うために臼杵を出発した。
姉妹は、悪い人から身を守るために髪を切り、
身なりを粗末なものにした。
つゆの夫、直八に見送られ出発。

船は、大阪まで17日を要した。
慣れない船旅。
船酔いのため、すっかりやつれてしまう。
大阪から京都の西本願寺に向けて歩く。
途中、名も知らぬ親切なひとにお世話になる。
西本願寺で、御盃頂戴をうける。
優しい老人に出会い、名高い神社仏閣を巡る。
姉妹は、お金を持って歩くと危険なので、
お金はもっていなかった。
宿代、食べ物は、知らない人に、
物をめぐんでもらいながらの旅を続けた。
途中、何度か危険な目にあったが、
いつもだれか見知らぬ人に助けられた。
静岡県の大井川にきた。
旅の難所だった。
矢沢村の清左衛門の家に泊めてもらう。
清左衛門の親切で
大井川の川番所に手紙を書いてもらう。
輦台(れんだい)にのり、無事、大井川を渡る。

箱根の関所に着く。
関所では、最初関守の役人に、
いろいろと厳しく質問された。
姉妹は、正直に答えた。
やがて、姉妹に対し関守も感心し、
親切に関所を通してくれた。
姉妹は、京都であった老人の言葉を思い出し、
熱心に神社仏閣を参拝した。
姉妹は、ここまで多くのひとの親切に感謝とた。
これも、親鸞さまのおかげでと思った。
藤沢まできたときに、
臼杵藩稲葉家家臣の稲葉重置と出会う。
重置は、姉妹のはなしを聞き、おおいに感心する。
江戸屋敷まで一緒に旅することになる。
江戸屋敷では、少し留まり体力を回復する。
江戸屋敷留守居役平生佐介は、
青蓮寺住職宛に手紙をかいてくれた。
4か月をかけて、苦難を乗り越え、
青蓮寺で父と娘の再開を果たした。
念願かない、親子3人は再開する。

姉妹は、青蓮寺近くの
お世話になった家にお礼のあいさつをして、
父の介護をおこなう。
父のことを藩の奉行所に届けていなかった。
村の医者猿田玄石は、奉行所に対し、
いままでの経緯を正直に文書にして、
提出した。
文書を受け取った奉行所では、
届の遅れを責めるものはなかった。
姉妹の親を思う心と勇気ある行動に皆、感心した。
その後、村人ばかりでなく、
役人たちからの姉妹への支援が相次いだ。
江戸屋敷から青蓮寺に手紙が来た。
初右衛門が長い間お世話になっているお礼、
その後、姉妹がお世話になっていることへのお礼。
春になり暖かくなったら、帰郷するようにしたい。
帰郷に関しては、臼杵藩が旅費など一切をもつ。
などのことが書かれていた。
その後、多くの人の暖かい人々にささえられ、
親子三人は、穏やかに過ごした。
2月になると臼杵藩江戸屋敷より
引き取り役の藩士が青蓮寺にやってきた。
村の医者猿田玄石は、
目にしたことや聞いた話を
「豊後の国川登二孝女物語」としてまとた。
別れの時に、3人に渡した。
水戸藩や臼杵藩の援助を受け、
無事に臼杵藩に帰ることができた。
水戸藩の準備した輿に乗った初右衛門。

二孝女の歩いた道のり。
臼杵発8/11→青蓮寺着10/9→
青蓮寺発2/9→臼杵着4/6

つゆ・ときから、
臼杵藩江戸屋敷留守居役、
臼杵城下善性寺住職などから青蓮寺に送られてきた手紙。
手紙は、きれいな字で書かれている。
農家に育ったつゆ・ときの字も上手である。
当時は、寺子屋で学んだと思われる。
当時の教育のレベルは相当に高い。
・・・草書体で書かれた候文である。
今は、パソコンになって、
このような字は書けない。
文字も実際に書いてみると、
パソコンでの漢字変換のためか、漢字が書けない。
・・・書かないとますます書く能力は退化していくようだ。
・・・さみしいはなしである。

二孝女顕彰会。
最近できた。
臼杵市と常陸太田市の交流は続きそうだ。
青蓮寺は、訪れる毎に何となく良くなっていく。
これは、住職さま、坊守さまほか、
お寺に関係されている方の心のあらわれだと思う。