12/8/11 大子町大子 シベリア抑留関係展示会。
シベリア抑留関係展示会 
-世紀の悲劇を銘記し、永遠の平和を祈念して-   
全国強制抑留者協会主催
ソ連領内の日本人収容所分布(1946年)

ソ連・外蒙内各地点死亡者発生状況外見図





伐採。  
松・樅の大木を寒さの中、鋸、マサカリで引倒すのはきつい。
疲労衰弱した体力でノルマ達成が悪戦苦闘。
倒れる木でなぎ倒されるひともいた。
疲労した体は逃げようとしても身体が動かない。
犠牲者も多かった。

厳寒の伐採作業と木材運搬。  
ノルマを強制され切り倒した木材を、
吹風の中を馬橇で運送する。
馬橇運搬係は比較的ラクに見える。
しかし、伐採と寸法通りの長さに切断することは大変だった。

寒い風の中、材木の輸送。  
森林(タイガ)の中での作業。
伐採した松、樅を運ぶ。

強制重労働。  
少量粗悪な食事で衰弱した体力での重労働は困難。
まき割り、水運びなど、作業に酷使される。
全く非道だ。
遠慮のない「ダバイ、ダバイ(急げ、急げ)」の声が、
追打ちをかける。休む暇もなく、
亡くなるひとも多かった。

ラズドニヤ ラーゲルの中。  
元ソ連軍の馬屋の中での生活。
捕虜収容所。

死体を運び出す。  
栄養不良でふらふらの仲間達が数名で、
死体のタンカを運び、
ツルハシや、スコップを持ちながら
ソ連の監視兵の許可を得て、
柵の外へ出て死体捨て場へ運ぶ。

抑留当時の収容所、作業場、建築物等の現状。







地方建立慰霊碑。



アルチョム市 
ウクロバヤ埋葬地 遺骨収集記録。

沿海州 アルセニェフ地内。

ソ連撮影 抑留記録。

厳寒と重労働。

ダモイ(帰国)。



抑留体験の労苦を語り継ぐ集い。  
シベリアに抑留された貴重な体験をきかせていただいた。
苦しかった、つらかった体験・・・・を聞かせていただきました。
ありがとうございした。

展示会場となった大子町文化福祉会館まいん

展示案内パンフレット、資料より
第二次世界大戦では、多くのひとが苦しんだ。
家族を残し、職を辞し、学業半ばで・・・、
多くのひとが戦場にいった。
あるひとは傷つき、あるひとは戦死した。
戦争が、終わったにもかかわらず、
満州にいた軍人、開拓団、義勇軍、看護婦など、
6万人がシベリア各地に強制拉致された。
厳しい寒さの中、飢餓と、重労働、疫病なとで、
6万人のひとが亡くなった。
・・・・
厳しい寒さの地に眠る、御霊の叫びを聞いてほしい。
この方々は、戦争で命を落としたのではない。
敵の撃つ砲煙ののなかで死んだのではない。
1945年8月14日、日本は、ポツダム宣言を受け入れた。
武装解除を受け入れ、砲弾も銃もとりあげられ、丸腰となった。
戦争は終わり、日本に帰れると思った。
しかし、銃に威嚇され、
シベリアに連れて行かれた。
千島樺太北朝鮮満州から、
200万人の日本人が被害にあった。
多くの方が亡くなった。
10万とも30万ともいわれる方が亡くなった。
正確な数は今もわからない。
これは事実である。
国家という背景を失った人々の悲惨と哀れがある。
・・・。