11/8/25他 福島県会津若松市河東町南高野字高塚山 会津藩校日新館。。  
苟(まこと)に日も新たならば 日に日に新たにす 又日に新たにせん。











南門。



映写室。



戟門(げきもん)。









東塾。





















山崎闇斎(やまざきあんさい)。



大学。

1時間ほど日新館のかたとお話した。
いろいろなとを教えていただいた。感謝します。

大成殿。





孔子像。



















資料館。
資料館は写真撮影は禁止。
安岡正篤先生の書が小さい額でかかっていた。
水練水馬池。

幕末・明治記念室。



ドラマの撮影で使用されたもの。



斗南に向かう会津藩の家族。

郡長正自害の場面。

武講。



山鹿素行の説明がある。



武道場。

木馬場。

弓道場

天文台からのながめ。

砲術場(乗馬体験場)。

西門

先賢堂。  
康熙文殊菩薩(こうきもんじゅぼさつ)  
会津藩校日新館の開学を祝い、中国より贈られた。
知恵と勇気の功徳のある菩薩。



■什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬものです)
1 年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ  
2 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ  
3 嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ  
4 卑怯な振舞をしてはなりませぬ  
5 弱い者をいぢめてはなりませぬ  
6 戸外で物を食べてはなりませぬ  
7 戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

■会津士魂の原点 日新館
現在 会津若松市の郊外に復元。
儒教を中心とした総合的教育
 「ならぬことはならぬものです」という会津魂。
白虎隊をはじめ多くの優秀な人材を輩出。
1803年に建設された。

■会津藩と学問
藩祖保科正之は、
学問奨励のため、諸国から学者を招く。
自らは四代将軍家綱の補佐役として講義した。
藩校日新館の前身ともいえる、
日本最古の教育施設『稽古堂』ができたのは この時代。
二代正経(まさつね)のときには
藩の学問所『郭内講所』が設けられた。
五代藩主松平容頌(かたのぶ)の時 
家老田中玄宰(はるなか)の建言を容れて学制の改革に着手。
家老田中玄宰は「教育は百年の計にして
会津藩の興隆は人材の養成にあり」とした。
1803年 藩校日新館は完成。 

■日新館とは。
日新館は孔子を祀る大成殿を中心に
文武の教場が並び、
医学や天文学まで教えた。
藩士の子弟は10才になると「素読所」 (小学)に入り、
試験で進級すると「講釈所」(大学)などで文武両道を学んだ。
戊辰戦争で自刃した白虎隊の少年たちは
日新館に在学中だった。

■大成殿 
江戸幕府は学問の中心を儒学としたため、
各藩校でも儒学を教育の中心にした。
大成殿は、儒学の祖である孔子をまつり、
日新館教育の柱とした。

■素読所(小学) 
日新館に入学した子供たちは、
最初素読所で「論語」等の素読(棒読み)を
先生と一対一で学ぶ。
4等級の制度をとり、試験により進級。
成績優秀な生徒は「飛び級」が認められた。

■大学(講釈所(こうしゃくしょ)) 
素読所を卒業した500石以上の長男と、
成績・人物優秀な者が入学を許された。
講釈所で 儒者の講義を受けるほかに、
学生の自主的研究、輪講、研究、
討議をなすことが重視された。
成績優秀な学生は、
幕府の学校「昌平校」への入学や、
全国遊学の制度もあった。

■礼式方 
武士として必要な礼儀作法の講義をする所で、
主流は小笠原流。
内容は、膳、茶碗などの置き方から、
切腹の作法に至るまで幅広いもの 
1等級から9等級までわかれていた。

■「遊びの什(じゅう)」と「什の掟」。
日新館に入学前の6歳より9歳までの子供が、
区域ごとに組を作りお互に研鑚していた。
それを「遊びの什」といい、
その規則が「什の掟」。
「什」とは10人1組をいい、
身分、家格の上下はなく、
平長者(9歳―同年者は早く生れた者)が什長となっていた。
什の遊びは、当番の家に集まり、
什長が「什の掟」を一条毎に読み、
つづいて全員で一条毎に御辞儀をした。
それが済むと什長は、
昨日この掟に背いた者の有無を尋ね、
違反者があれば問い正し罰を与えた。
その後は戸外で日暮まで遊び、
解散の宣言で帰宅した。
(日新館パンフレットを参考に作成)