11/8/25 福島県いわき市勿来町関田長沢 奥州勿来関跡
約1500年前設けられた関所。
白川関、念珠関と並んで奥州三古関のひとつ。
「勿来」すなわち「来るなかれ」と呼んだのは平安中期ごろ。
蝦夷の南下をせきとめるためであったといわれる。
平安初期、いわき地方の駅路(官道)の廃止にともなう
通行止めを監視する関とのはなしもある。
平安時代の終わり、陸奥守源義家が、
平定の為、奥州に下向する途中ここにさしかかる。
山桜が春の山風に舞いながら路上に散りしいていた。
春をおしむかのように、武将の鉄衣に舞いかかる桜の花。
義家も今はただ余りの美しさに駒をとどめた。
「吹く風を 勿来の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな」
と詠んだ。
源義家銅像
2 源義家
吹く風を なこその関と おもへども 道もせに散る やま桜かな
(花を散らし吹く風は、
「来るな」という勿来関には来ないと思っていたが、
道いっぱいに散る山桜)
関東の宮 関東と欧州の国境の守り神
奥州の宮
3 斎藤茂吉の歌碑
みちのくの 勿来へ入らむ 山がひに 梅干ふゝむ あれとあがつま
(陸奥の勿来の関に行く山間の道で梅干を口に含む私と私の妻)
4 永野修身
山桜 われも日本の 武士にして
(山桜よ、私も源義家と同じ日本の武士だ)
5 海上比佐子
桜木の 石にもなりて くちぬなを 関のこなたに とどめけるかも
(桜の木の化石になっても、
その名は廃れることなくここ勿来関にとどめることだ)
6 飛鳥井雅宣
九面や 潮満ちくれば 道もなし ここを勿来の 関といふらん
(満潮になったら道がなくなってしまう、
だから勿来の関と呼ぶのだろう)
7 小柳道義撰文
勿来関冠題詩碑
尋東北名所到勿来関
常磐両国境山逕万條煙
磐?古奥州遠隔地勢偏
国賊抗王師前後十二年
境辺奮猛威義家討夷還
勿来暮春桜落花御風旋
来駐詠国歌英雄花中仙
関跡騒客多八百星霜遷
懐旧念連起低回暫不竣
古碑誌顛末永久頌声伝
8 桜関老人
室桜関詩
憶昔陸奥垠
王化全不均
長蛇与封家
猖?事噬呑
天詔一朝下
源家出此人
東征千里外
前後十三年
草木漸靡服
率土知王民
山海改景象
不復起妖気
当年西遷路
経過勿来関
東風度蒼海
桜花翻媚春
壮懐引騒或
銀鞍勅不?
好将叱咤舌
吟咏吐瓊?
雄風与雅藻
触発自爛然
千載事唯逝
古関跡尚存
流風及今日
口碑可微真
請看蒭達者
尚唱山桜篇
9 源師賢
東路は なこその関も あるものを いかでか春の 超えて来つらん
(春は東から来るという、
東路には「来るな」という勿来関がある、
春はどうやって来るのか)
10 和泉式部
名古曽とは 誰かは云ひし いはねども 心にすうる 関とこそみれ
(来ないでなんて誰が言った。
誰も言っていない。
あなたが勿来関みたいな心の隔てを作り、
会いに来ないだけでしょう。)
11 小野小町
みるめ刈る 海女の往来の 湊路に 勿来関を われすえなくに
(海松布刈る海人が往来する湊路に
「勿来(来ないで)」なんていう関は据えてないのに、
見る目(会う機会)はなれ てるじゃない。)
12 杉孫七郎
過勿来関址有作
東伐懸軍千里遐
呼為私戦事堪嗟
古関尋詠春猶浅
料峭寒風以雪花
13 源信明
名こそ世に なこその関は 行かふと 人もとがめず 名のみなりけり
(名前こそ「来るな」という勿来関。
往来する人をとがめたりしない。
名前だけの関だったのだ)
14 芭蕉 風流の はしめやおくの 田植うた
源義家神社
勿来八景
大高朝霞 神とやは 八重に霞の 菩薩号
関田晩鐘 音淋し 松山寺の 蟾の暮
湯嶽晴雪 窓晴て 佐波古間近し 雪の尺
大嶋夜雨 香を焼て 簾の声も 水鳥哉
平潟帰帆 昆布とりの 真帆はいぬめり 雲の嶺
小濱夕照 一しくれ 夕日の干やすや 鰈網
佐糠落雁 夜は分る 孤雁なるらん 捨小舟
中田秋月 荒町を 曲らぬ月の 歩みかな