9/10/15 福島県会津若松市東山町 天寧寺てんねいじ 曹洞宗。
山号は萬松山。 
1447年、蘆名盛信が開いた。
最盛期は1,000名以上の僧、末寺33、僧堂12があった。
蘆名氏の菩提寺だった。
会津武家屋敷より歩く。10分くらい。
天寧寺の入口。

熊野神社の鳥居もある。

階段をのぼる。











会津士魂の碑

萱野権兵衛かやのごんべえ・郡長政こおりながまさの墓。
会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則。
加藤嘉明の上級家臣として、国替えにより会津に移る。
長則は天寧寺に葬られる。
天寧寺が萱野家の菩提寺となる。
9代権兵衛長修とその嫡男長正は有名。
長修は、戊辰戦争の全責任を一身に負い藩候と全藩士に代わり切腹。
享年42歳。知行1500石の家老だった。
郡長正は、戊辰戦争後、会津の教学復興のため、
福岡県の小笠原藩藩校育徳館に留学。
ある事情により会津武士道を汚したとして自刃して果てた。
時に齢16才だった。
(碑石より)
観音様の左隣にあるのが郡長正の墓。

萱野家と郡家の墓。
山に少し入りかけたところにある。
坂が急なところがある。
どんぐりの実が歩くところ一面に落ちていて、歩くのが大変だった。
何か出てきても不思議でない雰囲気がある。

近藤勇の墓に行くための道路

郡長正之墓200m  
萱野権兵衛之墓250m   
郡長正之墓と萱野権兵衛之墓は別なところにある?  
萱野権兵衛之墓はどこにあるのか? 
わからなくなった。

新選組局長、近藤勇藤原昌宣之墓。
15歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめる。
師近藤周助の養子となる。
元服して名を勇と改め、剣理を極め、試衛館を継ぐ。
塾頭に沖田総司、土方歳三他。新撰組の母体となる。
新撰組最盛期は、池田屋騒動のころ。
新撰組は鳥羽伏見の戦いに、伏見警備につくも新式火器の前に敗走。
土佐藩、谷千城により斬首の刑となる。
遺体は、東京三鷹市の龍源寺に埋葬された。
首は、京都三条大橋下流にさらされ、その後この地に埋葬された。
会津松平の地に、副長土方歳三の手により建墓された首塚と語り伝えられる。
(説明板より)

左 近藤勇の墓 貫天院殿純忠誠義大居士  
右 土方歳三の慰霊碑 歳進院殿誠山義豊大居士

近藤勇 辞世

孤軍援絶作俘囚  
顧念君恩涙更流  
一片丹衷能殉節  
雎陽千古是吾儔  
靡他今日復何言  
取義捨生吾所尊 
快受電光三尺剣   
只将一死報君恩
  
孤軍たすけ絶えて俘囚となる。
顧みて君恩を思えば涙さらに流る 。
一片の丹衷よく節に殉ず。
雎陽(すいよう)千古これ吾がともがしら。
他にな びき今日また何をか言わん。
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。
快 く受けん電光三尺の剣。
只まさに一死をもって君恩に報いん。
孤立し、援軍が絶え、囚われの身となった。
君主の恩を思いば、涙がさらに流れる。
真心からの忠誠心、義のために命を捨てることができる。
雎陽は、千古にわたっての永遠の同志である。
敵方に、今更何も言うことは無い。
義のために、生命をなげることは、望むところだ。 
剣を快く受けよう。ひとつの死により、君主の恩に報いたい。
・・・壮絶な詩である・・・。