8/9/4・5 和歌山県伊都郡高野町高野山 高野山
■8/9/4
ケーブルカー→バス→不動坂口の入口→
女人堂→巴陵院→蓮華定院 →西室院 →
金輪塔→五坊寂静院→徳川家霊台→
南院→福智院→光台院→龍泉院→
本覚院→無量光院→多宝坊 本王院→
普門院→一乗院→普賢院→蓮花院→
金剛峰寺→壇上伽藍→報恩院→西南院→
大門→桜池院→宝亀院→遍照尊院→
霊宝館→勧学院→明泉院・増福院→
成就院→釈迦文院→高野山大師教会本部→
常喜院→如意輪寺→バス→ケーブルカー
■8/9/5
ケーブルカー→バス→奥の院→清浄心院→
宝善院→赤松院 ・東根院→熊谷寺→恵光院→
光明院→大明王院→密厳院・苅萱堂→
地蔵院遍照光院→北室院→不動院→三宝院・高祖院→
成福院→持明院→大円院→西門院→高室院→
安養院・金蔵院→金剛三昧院→バス→ケーブルカー
ケーブルカー
不動坂口の入口。
■弘法大師と高野山について。
高野山は、1,000m級の山に囲まれた、標高約800mの平坦地。
弘法大師(空海)は、高野山を八葉蓮華、8枚の花弁をもつ蓮の花と見た。
山上に曼荼羅世界をつくり、宗教活動の拠点とした。
真言密教の聖地。
現在、100ヶ寺以上の寺院がある。
警察署、学校、役場などもある。
ピーク時には、2,000の寺があった。
現在の、20倍。
どこにあったのか?
弘法大師は、書家として著名。
お大師様信仰の対象となっている。
少年の日、好んで山水を歩いた。
吉野より南に行くこと一日、
さらに西に向かって去ること両日ほどにして、平原の幽地あり。
名づけて高野という。
計るに、紀伊の国、伊都の郡の南に当れり。
四面高嶺にして、人蹤、蹊絶えたり。
南山の松石は看れども厭かず 南嶽の清流は憐れむこと已まず、
孤雲は定まれる処なし 本より高峰を愛す 人里の日を知らず 月を観て青松に臥せり
高野山では、地元の神さま、狩場明神と丹生明神とを尊崇している。
金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われる。
高野山の子院は、学侶、行人、聖に分かれる。
学侶は学業専門の僧侶。
行人は法事修行の手伝いや雑務を担当する僧侶。
聖は高野山の因縁を語り勧進する僧侶。
■歴史。
774年、弘法大師は、香川県善通寺市に生まれる。
30歳頃まで、奈良の寺院・山中で修行。
804年、唐に渡航。
長安・青龍寺の恵果和尚に密教の奥義を学ぶ。
806年、帰国。
816年、高野山に真言密教道場の設立を天皇に願いでて、許しを得る。
819年、高野山上、七里四方に結界を結ぶ。
伽藍の建立に取りかかる。
はじめに明神社を建立。
在世中に完成した堂宇は少なかった。
当時の建築物は現存しない。
835年、弘法大師、高野山奥之院に入定。
883年、弘法大師入廷後、
真然が約20年をかけ、根本大塔などの伽藍を整備。
900年、宇多法皇、高野山参詣。
994年、落雷で、ほとんどの建物を焼失。
僧は山を下りる。
1016年、祈親上人定誉、高野山復興に着手。
1023年、藤原道長が参詣。
1088年、白川上皇参詣、大塔再建の宣旨を下す。
1103年、大塔完成。
1140年、覚鑁上人、高野山から追われ、約700人の僧侶を連れ根来に移る。
1149年、大塔に落雷。
御影堂を除き全焼。
1156年、平清盛が大塔再建に尽力。
1186年頃、 高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加。
源平の騒乱期は、高野山で出家する貴族や武士が、草庵を建てた。
1192年頃、法然・親鸞・日蓮、高野山で修行。
1198年、行勝、一心谷に不動堂を建立。
1223年、北条政子が、源頼朝のため、金剛三昧院に多宝塔を寄進。
最盛期には高野山に2,000の堂舎が立ち並んだ。
1265年〜1285年、高野山麓慈尊院から山上まで町石が建てられる。
1392年、足利義満が参詣。
1406年、二者が対立して論議の勝敗をあらそう「竪精論議」はじまる。
1581年、織田信長と対立。
高野攻めが行われる。
僧が大量に殺害される。
信長が「本能寺の変」にたおれ、難をまぬがれる。
1585年、豊臣秀吉、高野山に寺領の返還を迫る。
木食応其が仲介者となり、秀吉に服従を誓う。
秀吉は応其に帰依。
1593年、秀吉、寺領を寄進。
母の菩提のため、青巌寺建立。
徳川家が高野山を菩提所とする。
諸大名が高野山に霊屋、墓碑、供養塔を建立。
高野山の奥の院の参道沿いには、無数の石塔が立ち並ぶ。
1688年〜1704年、参詣人の増加に伴い、僧侶以外の職人や町人が住む。
1705年、大門が出来る。
1847年、御影堂が紀州徳川家により再建。
幕府による寺院取り壊しや火災により、江戸時代の末期、子院は436軒にまで激減。
明治維新、寺領返還などで経済的な基盤を失う。
子院の統廃合が急務の課題となる。
1869年、青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺となる。
1888年、五の室谷大火。子院77ヶ寺、民家70余戸を焼失。
廃仏毀釈により、消失を免れた359ヶ寺の子院は、統廃合で130ヶ寺になる。
寺の宝物を残すため、再興できる寺にゆずる廃寺も多くなる。
1900年、 高野山大師教会発足。
1905年、女人の入住が認められる。
1926年、金堂全焼。
1932年、金堂再建。
1937年、大塔再建。
1946年、高野山真言宗を名乗る。
金剛峯寺を総本山とする。
2004年、世界遺産に登録。
(フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」ホームページより)
(高野山ホームページより)
(高野山霊宝館ホームページより)
■高野山と大名家
■巴陵院
戦国時代、相馬・伊達菩提寺。
相馬義胤の法名により巴陵院と改称。
■蓮華定院
1522年長野県小県・佐久地方の豪族と宿坊の契約。
関ヶ原の戦の後、真田昌幸・幸村は高野山に蟄居。
蓮華定院に仮寓。
妻子は、九度山。
幸村は大阪夏の陣に戦死。
長野市松代に移った真田。
京の高野山における菩薩寺。
■徳川家霊台
徳川家康と秀忠をまつる東照宮。
1643年、三代将軍・家光が建立。
場所は本来、聖派の代表寺院、大徳院の境内。
■本覚院
古来より伏見宮家菩提所。
源頼朝の子息である大友一法師丸以来、
19代、尾張徳川、臼杵稲葉、大洲加藤、岸和田岡部等の諸侯の帰依を受けた。
稲葉家との縁により歴代住職は稲葉の姓を名乗る。
寺紋も稲葉家に由来する角切折敷三文字。
■無量光院
越後の上杉謙信は剃髪入道し師弟の約を結ぶ。
堯海盛存房は、織田信長の護持僧として
池田・浅野・伊東・毛利・丹羽・福島の帰依を受けた。
浅野・織田・伊東・筒井各家や有栖川旧宮家と檀契深い。
織田信長などの各家墓所を管理。
■本王院
1159年、常陸国行方郡の住人少納言覚尋徳蔵法印登嶺して2代目を継承
常陸の大名、島崎、姻田、宍戸の帰依あつくする。
以後、茨城・東京・大阪・堺など全国に信徒を擁す。
■五大院
奥州宮城石巻の城主葛西の帰依をあつくする。
葛西坊五大院という。葛西の縁戚、仙台の伊達政宗、
宮城県、福島県、岩手県及び京都・奈良方面に多数の信徒がいる。
明石の城主の篤信を得て、明石地方にも信徒が多い。
■普門院
948年、普門院「新造の間」で、将棋の第7期名人挑戦者決定戦が行われた。
世に言う「高野山の決戦」。
升田30歳対大山25歳。
3番勝負。
1勝1敗で迎えた高野山普門院での第3局。
先手升田、後手大山で将棋は進み、終盤、
升田必勝の将棋となるが、大悪手により升田はトン死。
その直後に升田の口をついて出た言葉、
「錯覚いけないよく見るよろし」 。
■一乗院
第14世清融良住房は上杉家の重臣直江山城守の次男。
住職を継ぐ。母(お船)寄進の三十三身観音像は現存する。
1674年、九条左大勝及び官女長橋局の帰依厚く、
九条家の菩提所として永代供養を勤める。
1684年、霊元天皇・春宮御所から色々な寄進有り。
1765年、紀伊中納言大真より累代位牌を納められて寄付物あり。
1767年、九条入道、入道筆の梅に羊を描かれた軸を寄付される。
■普賢院
尼子の遺臣である山中鹿之助幸盛が普賢院に潜居。
■金剛峰寺
1869年神仏分離令以前は、青巌寺と興山寺2つの寺だった。
2つの寺が合併し、金剛峯寺となった。
青巌寺は、豊臣秀吉が母の菩提を弔うために建立。
■西南院
鳥羽法皇が参詣されて効験あらたかであると当院を勅願寺と定める。
江戸時代は、大分の中川家公を初め、岡山、淡路、埼玉の諸大名が参詣。
■桜池院
武田信玄・武田家代々の御菩提所。
防州大内家歴代の檀寺。
■遍照尊院
江戸時代は、津軽家との檀縁深い。
■成就院
仙台伊達政宗の庇護を受け代々伊達家の菩提寺。
■釈迦文院
徳川時代は、岡山津山、赤穂藩主森家(森蘭丸一族)の菩提寺。
■清浄心院
平宗盛公が再建。
滝口入道修道の寺として平家物語に名を残す。
紀伊根来寺焼き討ちの際、逃げ延びてきた僧等を匿った寺として知られる。
根来大伝法院、京都智積院、大和長谷寺と密接な関係がある。
上杉家、佐竹家、結城家他、大名家の名を過去帳から散見出来る。
大庭園や銘木「傘桜」は、秀吉が花見を催したと伝えられる。
■赤松院
1331年、赤松則村が入道。
赤松院に改名。
赤松一族の菩提所となる。
江戸期には細川、有馬家の菩提所となる。
■東根院
山形の西村山(現東根市)の大名里見氏の建立。
■熊谷寺
一の谷における源平の合戦に敗れた
平家方の将兵は友軍の軍船に逃れた。
この時、遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した。
熊谷直実は、格闘数合、組敷いて首級をあげようとした。
よく見ると、我が子と同年輩、平家大将経盛の末子、敦盛だった。
敦盛の首を斬るに忍びず、躊躇したが、心を鬼にして首を掻き斬った。
直実は、世の無常を感じる。
法然上人の弟子となり法力房蓮生の名を与えられる。
■恵光院
八代将軍吉宗の命で恵光院の名に改称。
薩摩、島津義弘が、寄進。
■光明院
阿波、蜂須賀家と縁があり、蜂須賀家代々の遺骨を納め、一族、家臣を弔う。
■大明王院
大岡越前守をはじめ、檀信徒各家先祖の霊牌を供養。
■地蔵院
下妻城主多賀谷家、福知山城主稲葉家、高取城主本多家、
越前城主松平家、津城主藤堂家の菩提寺。
■遍照光院
奥州盛岡の南部公及び豊前小倉の小笠原公によって再建。
檀縁地は、旧盛岡八戸南部領、九州小倉小笠原領、会津松平領、
千葉下総領、唐津寺沢領、対島宗領等とは特に檀契深い。
■北室院
奥州仙台の伊達、伊予宇和島の伊達、播州竜野の脇坂の帰依厚い。
伊達政宗の供養宝物を蔵す。
政宗以下各家歴代の位碑を安置。
■三宝院
弘法大師の母、玉寄御前により創立。
新潟新発田家・溝口家・福島二本松家・丹羽家の菩提所。
■成福院
大檀主は、対馬領主宗家、長門清末城主毛利家、
奧州角田城主石川家、出羽亀田城主岩城家、
長門豊浦城主毛利家、肥前唐津城主寺沢家、公卿飛鳥井家。
■持明院
伊達家、武田家、土屋家、京極家、木村家等が大壇主。
■大円院
大檀主立花宗茂の法号 大円院殿をその寺名とした。
■西門院
里見家由来の寺院で上総国・下総国・安房国の宿坊。
■高室院
小田原城主北条氏直が潜居。
北条家の菩提所として小田原坊と呼ばれ.る。
現在も関東の寺院、信者との関係が深い。
藤堂家とも関係が深い。
■安養院 毛利家の菩提所。
■金剛三昧院
北条政子が夫源頼朝菩提の為に創建。
頼朝の念持佛であった愛染明王を本尊とした。
源家に続き、北条・足利両家並びに源氏有縁・伊予河野家、土佐長曽我部他。
■北室院
奥州仙台の伊達候、伊予宇和島の伊達候、播州竜野の脇坂候等、
諸大名の帰依厚く特に、
伊達政宗候の供養宝物などを多く蔵し政宗候以下各家歴代の位碑を安置。