8/8/11他 東海村石神内宿 石神城
■概要。
石神城は、東側が久慈川の蛇行部分が城下を流れる。
南北を谷に囲まれた舌状台地の東端にある。
東西680m・南北430m。
城跡全体は、5か所の郭に分かれる。
石神小野崎氏の城跡。

石神城跡縄張図 

■内宿留 
内宿留より石神城をみる。
現在釣りが出来る池がある。
往時水がせき止められ
敵の侵略を防ぐ役割をはたしていたか?

V郭よりU郭をみる。

V郭よりU郭に通じる土橋。

U郭よりV郭をみる。

U郭とT郭の間の土塁と掘。

■T郭(遠見城) 
久慈川の断崖に面した奥まった位置にある。
東西数m・南北95mの細長い郭。
北の崖は高さ15m。
U郭との間に空堀がある。
南・北土塁の中間に虎口。
土塁が御城に対してある。
I郭は本丸に相当か?

■U郭(御城・実城・みじょう)
東西100m・南北125m。
周囲は堀で囲まれている。
西側が狭い台形。
西側に出入り口があり食い違い虎口に門。
ここからV郭に土橋がある。
江戸時代につくられた?
もとは木橋か?

■V郭 
内郭部分の西端に位置した曲輪。
南北148m・東西90m。
西側が広い台形。
実城側に土塁はない
他の三方に土塁がある。

■W郭(北郭)
南北150m・東西200m。
堀はない。
■V郭 
V郭の西側に東西460m・南北430mの外郭。
西側には南北900mの土塁・130mの堀があった。
家臣団の屋敷地があった。
■長松院。
曹洞宗・住吉山長松院吉祥寺。

石神小野崎氏の墓碑



石神城合戦戦死者の供養塔。

■観音寺跡
V郭内に真言宗の観音寺があった。

■石神城の総構え。
石神城は石神内宿の台地上にある。
三方は崖。
西側は台地。
西側は堀を掘って、
土塁をつくり惣構えとした。
惣構えの中に家臣が住んでいた。
経済活動のため太田・湊街道が取り込まれた。
土塁は長松院のある台地にも築かれていた。

■石神小野崎氏と石神城
小野崎氏は平安時代に常陸北部に勢力をもつ。
源義光の入部により支配権を譲り渡す。
以後佐竹氏の家臣となる。
南北朝期に佐竹氏は足利方として活躍。
小野崎氏も各地を転戦。
小野崎氏の本拠は現在の常陸太田市
佐都西郡小野・小野崎郷。
1348年。小野崎通胤は佐竹氏に本拠を渡す。
小野崎城から現在の十王町・櫛形城に移る。
1370年。山尾城(十王町)に移る。
小野崎通胤に3人の子。
長男・通春は小野崎惣領家・山尾小野崎氏。
2男・通房は石神小野崎氏。
3男・通業は額田小野崎氏。
15世紀。
佐竹惣領家と山人氏との争い・佐竹の乱。
約100年間続く。
石神城は山人方の居城となる。
石神小野崎氏は滝河原(竹瓦)を与えられる。
1485年。山人氏は佐竹惣領家に攻勢を強めた。
小野崎通綱は佐竹義治の身代わりで戦死。
その子通老に石神・川井郷が与えられた。
佐竹義舜は岩城氏・茂木氏の支援を得る。
1504年。佐竹義舜は山人氏を滅ぼし佐竹の乱を終息。
義舜の死後、義篤が跡を継ぐ。
弟の義元が部垂の乱を起こす。
1535年。小野崎通長(石神氏)も石神城で反乱を起こす。
佐竹義篤の死後義昭が当主。
北・東・南家の三家が
惣領家の家政を分担。
1546年。小野崎篤通(額田氏)と
小野崎通長(石神氏)は
所領を巡り合戦。
石神通長は敗北。
佐竹氏による和睦調停。
佐竹氏に服属し戦功を立て帰城。
佐竹義昭は家中の統一を図り、
陸奥南郷や下野那須・芳賀郡を攻める。
石神小野崎氏も参陣。
水戸城の江戸氏・額田城の額田小野崎氏を滅ぼす。
佐竹氏は常陸領国を統一。
石神通広には石神の内900石が与えられる。
佐竹氏は関ヶ原の戦い後秋田に移封。
石神小野崎氏も従う。
石神城は廃城。
■関連系図01

■関連系図02