8/4/5他 水戸市松本町  回天神社。  
主祭神 水戸勤王殉難志士 1,785名。  
創建 1969年。
安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変以後、
国のために殉した1,785名の志士の霊を慰める。



●水戸殉難志士の墓。 
1864年。尊皇攘夷をめぐり「天狗党の変」が起った。
幕府軍に降伏した
水戸藩榊原新左衛門等1,000余の志士は、
茨城古河、千葉館山等10数カ所の獄舎、寺院に幽閉された。
降伏から救出開放される4年間に
斬死、幽死、獄死した志士の数は、
400人とも500人ともいわれる。
1869年。初代水戸藩知事徳川昭武は、
これらの志士の遺骸を収容、
常磐共有墓地の一角(現回天神社境内)に埋葬した。
1914年。「天狗党の変」より50年を期して慰霊祭がおこなわれた。
殉難志士の氏名、年齢、死因、殉難地を調査した結果、
371名について判明した。
その氏名を刻して墓を建てた。
墓列の総延長は370mとなった。
(説明板より)

●回天館。
1864年。尊王攘夷をとなえ、
筑波山に挙兵した藤田小四郎等の天狗党。
幕府討伐軍や水戸の佐幕派と各地で激戦を展開した。
藤田小四郎達は、武田耕雲斎を総大将とし、
京都に滞在してた一橋慶喜を通し
朝廷に歎訴のため、常陸大子に結集。
京都へ向けて出発した。
総勢1,000余名の志士達は、
下野、上野、信濃などにおいて、諸藩兵と戦う。
厳寒の中を飛騨から越前へと
深い厳しい雪道の難行軍が続いた。
越前国に到着したとき、
頼みとする慶喜が、
一行に対する討伐を命じたとの報を得る。
軍議の結果加賀藩に降伏した。
志士達823名は越前敦賀の三寺院に分散収容され、
加賀藩の永原甚七郎らの手厚い保護を受けた。
1865年。幕府討伐軍田沼玄蕃頭意尊により、
敦賀の16棟の鰊倉に押し込められた。
その後、
総大将の武田耕雲斎や藤田小四郎達353名は、
鰊倉から引き出され、斬首された。
斬首を免れたその他の志士は
流罪・追放などの刑を受けた。
1957年。天狗党の血涙がしみ込んだ
16棟の鰊倉のうちの1棟が、
敦賀市より水戸市に寄贈された。
常磐神社の境内に移築復元されて
「回天館」と名付けられた。
その後、
志士達を祀る回天神社の境内に移築された。
「回天」とは混乱、衰微した時勢や国勢を
正しい状態に盛り返すことを意味する。
(説明板より)



水戸光圀によって創設された、水戸藩士のための共同墓地。
常磐共有墓地。 格さんの墓。

藤田東湖の墓