6/3/11  11/2/9  水戸市三の丸 弘道館
弘道館は、旧水戸藩の藩校。
正門・正庁・至善堂は国の重要文化財。
1841年。9代藩主徳川斉昭が弘道館を開館。
偕楽園は1842年に開園。
斉昭は藩政改革を行う。
弘道館は、水戸城三の丸にある。
敷地総面積は 2万m2。
正庁を中心に、右に文館、左に武館。
天文・数学・地図の館、養牛場 薬草園を持つ医学館。
敷地西側は武術調練場と馬場。
中央広場の梅林の中に鹿島神社と孔子廟を祀る。
15代将軍慶喜は、11才で一橋家の養子となるまで弘道館で学んだ。

大政奉還後は弘道館内至善堂で謹慎。
●弘道館正門。
本瓦葺き四脚門。
一般の出入りは禁止。
藩主来館、諸行事の時に開門。
門の左右に、瓦葺き白亜の土塀。
門柱、梁、扉に弾痕が見られる。
明治元年、勤王派と佐幕派との銃撃戦のもの。

●通用門  
正門に向かって右手に通用門。

●正庁
弘道館の中心建物。



大玄関には「弘道館」の扁額。
正面奥に大広間、左方に三室、「正庁」という。





奥の大室は正席。
藩主出座するところ。





「弘道館記」の拓本。



至善堂
本館の右奥にある。
本館と畳み廊下で結ばれている。
入り側と濡れ縁をめぐらした四室。
奥の一室は藩主の座所。
大政を奉還した慶喜が謹慎した。
他の三室は諸公子講学の場所。

要石歌碑の拓本。
行く末も ふみたがへそ あきつしま 大和の道ぞ かなめなりける





■孔子廟 (パンフレットより)
文武周公の平天下治民の教え。
孔子により中正を得、淳化し発展。
その徳を弘道館では敬慕。
教義を採り入れた。
廟を建て孔子を祀る。
日本古来の倫理道を基本とし、
これに儒教の道徳を学んだ。
教育目標。
神道と儒学の調和。 
朝廷・幕府・親への忠誠。 
学問と武道の両立。
学問と事業の一致。
●入学年令と卒業
15歳で、40歳以上は任意で通学し、卒業はなし。
15歳以前は私塾等で学び試験を受けて15歳で入った。
■徳川斉昭
1800〜1860年。  
1829年藩主になる。
藩政改革を進める。
過激な改革を嫌った幕府に隠居謹慎を命ぜられる。
後に許されて幕政にも関与。
井伊直弼と対立。
安政の大獄で蟄居。
井伊が桜田門外で斃れた半年後に急死。
将軍慶喜は7男。
■藤田東湖
1806〜1855年。
父幽谷の代から水戸藩に仕えた儒学者。
斉昭の側近,藩政改革を推進。
安政の江戸大地震で圧死。
■会沢正志斎。
1782〜1862年。
儒学者。
藩政改革で活躍。
弘道館教授頭取。
■青山拙斎
1776〜1843年。
儒学者,
弘道館教授頭取。
■尊王攘夷 
光圀の大日本史編纂から水戸藩は尊皇。
斉昭のとき攘夷が加わり尊皇攘夷となる。
■弘道館記八卦堂(パンフレットより)
弘道館記は、
斉昭が趣旨を藤田東湖に説明、草稿を作らせた。
会沢正志斎,青山拙斎らが見て意見を述べた。
最後に斉昭が裁定した。
寒水石に刻まれ八卦堂にある。
■弘道館記読下し文。
●弘道とは何ぞ。
人能く道を弘むるなり。
●道とは何ぞ。
天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざるものなり。
●弘道の館は何の為に設くるや。
恭しく惟みるに上古、神聖極を立て統を垂れたまひ、
天地位し、万物育す。
其の六合に照臨し、寓内を統御したまふ所以のもの、
未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり、
宝祚之を以て無窮、国体之を以て尊厳、蒼生之を以て安寧、
蛮夷戎狄之を以て率服す。
而るに聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず、
人に取りて以て善を為すを楽しみたまふ。
乃ち西土唐虞三代の治教の若き、資りて以て皇猷を贊けたまふ。
是に於て斯の道兪大に兪明かにして、復尚ふるなし。
中世以降、異端邪説民を誣ひ世を惑はし、
俗儒曲学、此を舎てて彼に従ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵ぎ、
大道の世に明かならざるや蓋し亦久し。
我が東照宮、乱を撥め正に反し、王を尊び夷を攘ひ、
允武允文、以て大平の基を開く。
吾が祖威公、実に封を東土に受け、
夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊ぴ、武備を繕む。
義公継述し、嘗て感を夷斉に発し、更に儒教を崇び、
倫を明かにし名を正し、以て国家に藩屏たり。
爾来百数十年。
世々遺緒を承け、恩沢に沐浴し、以て今日に至る。
則ち苟も臣子たるもの、豈斯の道を推弘し、
先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。
此れ則ち館の為に設けらるる所以なり。
●抑々夫の建御雷神を祀るは何ぞ。
其の天功を草昧に亮け、威霊を茲の土に留めたまへるを以て、
其の始を原ね、其の本に報い、
民をして斯の道のよりて来る所を知らしめんと欲するなり。
●其の孔子の廟を営むは何ぞ。
唐虞三代の道此に折哀するを以て、其の徳を欽ひ、其の教を資り、
人をして斯の道の益々大いに且つ明かなる所以の
偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。
嗚呼我が国中の士民、夙夜解らず、
斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へを資り、
忠孝二なく、文武岐れず、学問事業其の効を殊にせず、
神を敬ひ儒を崇び、偏党あるなく、衆思を集め、
群力を宣ベ、以て国家無窮の恩に報いなば、
則ち豈徒に祖宗の志墜ちざるのみならんや、
神皇在天の霊も亦将に降鑒したまはんとす。
●斯の館を設けて、以て其の治教を統ぶるものは誰ぞ、
権中納言従三位源朝臣斉昭なり。
天保九年歳戊戊に次る春三月、斉昭撰文、並びに書及篆額
■意味 
●弘道と何か。
人は道を弘める能力をもっている。
道が自然に弘まるのではない。
道を弘める能力を持ち、道を弘める責任のあるのは、
人に外ならない。
●「道」とは何か。
自然界の秩序を立てているものが道です。
自然界の大きな秩序が即ち道です。
生きている人間が、しばらくも離れてはならないものです。
●弘道館は、如何なる目的の為に創られたか。
恭しく考えると、古くは、天照大神様、
やがて神武天皇、神々の力により、この秩序の根本が立った。
極を立てば、最高の位を決めた。
天皇の位に即き、天皇を以て秩序の根本、本源とし、
その後、その御血統がこれをお嗣ぎになった。
それにより、自然の秩序は立ち、
全ての物がその中に成育して、繁栄した。
六合は天地と四方、東西甫北の四方に天地を加えて六つ、寓内と国は同じ。
天皇が世の中を照らし、世の中を統御され、
その拠り所は、必ずこの道によって、日本の政治は行われて来た。
天皇の位は之を以て無窮に続き、
日本の国体は、国柄は之を以て尊厳である。
人民は之を以て安寧な生活を送ることが出来、
南の方を蛮、東にある異民族を東夷、夷といい、
西にある異民族を戎、西戎、北にある異民族を狄、北狄という。
四方の片隅に住んでいる異民族は、この道があるので、日本に従う。
日本の国ができた時、既に道は立った。
御歴代の天皇は、
日本の道さえあれば、神武天皇の道で十分であるとは考えず、
外国から善いものがあれば、それを取リいれる。
西土はシナ、唐は奏舜の尭、尭は初め、唐の殿様だった、
虞は舜、三代は夏、殷、周、
その奏、舜、夏、殷、周の教えは、これを元手として、
それを採用して、資料、資材として、
日本の文化を発展させ、道義を開明し、天皇の大いなる謀を賛けた。
もうこれ以上加えることは出来ない程に、素晴らしいものに発展した。
わが国では、中世より、邪道、間違った説が、民を誣ひ世を惑わす。
下らない、間違った学者共が、俗儒曲学、日本の道を捨て、
そういう異端邪説に従い、天皇の教えが衰えてくる。
大道が世に明らかでない時は、よく考えると、随分、年久しい。
徳川家康公は、乱を治め、正に反して、
皇室を尊ぴ、外国の間違った考えを打ち攘って、
文武二つの徳を発揮されて、太平の基を開かれた。
頼房公が、徳川家康公のお子様として、常陸に封ぜられて、
早くより、日本武尊命の人となりを慕って、
神道を尊び、武備を繕められた。
義公はそれを受け継いだ。
夷斉は伯夷叔斉、殷が周によって滅ぼされる時に、
いかに悪逆な人であっても、主人は主人、
この方に背くことは出来ないと、周の武王を諌めた人、
義公は、その夷斉の態度に感激し、
さらに儒教を崇んで、人倫を明らかにした。
親は親としての名、子は子としての名に恥じない徳を治めねばならない。
君は君でなければならない。
臣は臣でなければならない。
塀、屋敷に於いて、垣や塀があるように、
国家の垣根、塀となってきた。
以来百数十年。世々遺緒を承け、恩沢に浸り、湯浴みするように、
その御恩に浸り、お蔭を蒙り、今日に至った。
水戸藩に於いては、その恩沢を受けた者は、
益々この道を推し広め、先祖の徳を発揚しなれけばならない。
これが、弘道館の設けられた目的です。
●弘道館の一隅に、健御雷神を祀ってあるのはなぜか。
鹿島の祠があり、鹿島の神を祀ってある。
●これはどういう意味か。
これは日本の、この国を肇められました時に、
神様の功績をまだ国が未開の時に、
これをお亮けになり、その御霊を、
この土、常陸にお留めになったので、
その由緒をたずね、日本の道があきらかになったのは、
天皇の御威光の前に、我々は謹まなければならない。
これは教えたのは、健御雷神である。
もし、御上の御命令に従わない者があれば、
この神はそれを討伐したということを知らせたい。
●弘道館の中に孔子の廟があるが、これはどういう意味か。
これは尭、舜、夏、殷、周の道が、シナ古代の道がここに折衷する。
孔子が、シナ古代の道の中で、
極端な所を捨てて、その中性な所を集め、それに統一された。
その孔子の徳を敬い、その教えを採用して、
孔子によってシナの教えが集大成せられ、
その中正なところに落ちついた。
これは偶然では無い。
孔子のお蔭ということを知らせたい。
今水戸藩に於いて、水戸の士民が、朝から晩まで精神を集中して、
この学校に出入して、
神国日本の道を根本に奉じて、そしてシナの学問もこれを採り入れて、
忠孝二なく、
文と武が二つに岐れてはいけない。
学者は学者、事業は事業、とはならないで、
学問と事業とが、一つの精神で貫かれる。
その働きを異にしないで、偏った党派心を懐かないで、
皆の考えを集め、全ての人の力を伸ばす。
水戸藩の先祖である威公や、義公の志は墜ちないばかりではない。
神武天皇を始め奉って、御歴代天皇、天にまします御霊も、
又これを良しとされる。
●この学校を設立して、そしてその学長となり、
これを統率しているのは誰か。
全責任をもつものは権中納言従三位源朝臣斉昭なり。
天保九年歳戊戊に次る春三月斉昭公、文を作り、
並びに書し、これを自分でお書きになり、
さらに又上に篆額を書かれた。
(安見隆雄氏による平泉澄博士の、講義記録を参考にしました)