5/9/17他 笠間市稲田 稲田の草庵跡 西念寺 真宗単立
親鸞が越後の国より常陸の国にきて、
約20年間布教した地が稲田。
何故稲田にきたのか?
奥さんの恵信尼の父が、
貴族 九条家で高い地位の家来(家司?)。
稲田には九条家の荘園があった。
親鸞の稲田での布教は、
「言葉も異なり」
「お金もなく」
「食べ物にも困る」
「こどももいた」。
生活に困ったときに、
荘園に行き
「九条家で高い地位の家来の娘・・・・」
ということで大事にされたためか?  
稲田あたりは、裏筑波という。
南北朝時代に京都からきたひとが多い。本当? 
1000年チョット前のこと、
でも色々な説がありわからないことが多い。
参道

参道

山門  
親鸞聖人 教行信証 御製作地 
浄土真宗別格本山。
浄土真宗発祥の聖地。
越後配流を解かれた親鸞聖人。
この地の領主で弟子となった稲田九郎頼重に迎えられて、
ここに草庵を結んだ。
1232年六十歳の時、
京都へ旅立つまで約20年間にわたり、
この草庵を根拠とした。(説明板より)

親鸞聖人は、
越後の国より常陸の国稲田に隠居しようとした。
幽棲、俗世間から離れてひっそりと暮らそうとした。
しかし、仏道に入っている人と俗世間の人がたずねてくる。
粗末な貧しい家を閉じようとしても、
色々な身分の人が多く集まった。
御伝鈔 稲田興法の段より(説明板より)
本堂 1995年再建 
浄土真宗開闢之霊地西念寺

本堂内。
住職のはなしを聞く。
何故親鸞は稲田にきたか・・・・・。 

坊守(浄土真宗で、僧侶の妻をいう)さんのお話し。
恵信尼のはなし。

鐘楼

御葉つき銀杏  
親鸞聖人が草庵の庭に、
銀杏の実を葉に包みまいたところ、
葉先に実った。(説明板より)
親鸞が植えたといわれる「お葉つき銀杏」  
大きい

■神原の井戸  
鹿島大明神が老人になって、
白髪の老翁となる。
親鸞聖人の仏法をきいた。
いっさいの衆生を必ず救いとって
浄土に生まれさせよう聞法に大変喜び
弟子となった。
法名は、釋信海となる。
鹿島大明神は、
喜び鹿島七つ井のひとつを献じようとした。
大地をたたいたところ清水が湧き出た。
徳川光圀は、
いわれを聞き、御影石の井筒を寄進した。
二品尭胤親王の歌
神原の たえぬちぎりや 法の井の 永く稲田に そそぐためしは
一如上人の歌
とし毎に 水のみちひや 六月の しるしなるらん 神原の井   
易行院法海講師の歌  
うごきなき 磐井の水を 汲みて知る 神と佛の 深き契りを
 
 (説明板より)
■御杖杉
1212年春、親鸞聖人は、越後より稲田にこられた。
景色をながめ、
救世菩薩に夢で告げられたのは稲田の地と感じた。
草庵をつくり衆生化益(りやく)、
人を教え導き、
善に導き、
仏・菩薩が人々に恵みを与えるように願った。
御杖杉を深くさしたところ大木になった。
1871年焼失。  
水戸光圀の歌  
老いの身の これぞ力の しるしぞと つきとめにけり 庭の杖すぎ  
光顔院講師の歌
古の 夢のゆかりを 今此処に 思いつきたる 杉の木の杖
  
(説明板より)
神原の井戸(右)と御杖杉(左)

■稲田御幽楼の三大縁由
西念寺幽楼
念佛法難で流罪となった法然と親鸞。
5年の後に被免となる。
法然は亡くなった。
弟子が集まり相談。
念佛興隆の後継者として親鸞にお願いしようとした。
当時、親鸞(善信房)は、流罪により越後にいた。
弟子のひとりに元常陸の国宇都宮城主、後の実信房がいた。
実信房は、関東が安全な場所であると提案。
親鸞を庇護することになった。
関東の諸大名もこれにに従った。
親鸞は、この地を眺め六角堂夢想に似ていると喜んだ。
親鸞が稲田にこられた3つの縁は。
1.法然がなくなったこと。 
2.関東武士の庇護をえたこと。 
3.この地が六角堂夢想に似ていたこと。
があげられる。
(説明板より)
最近、幽楼は、再建された。
時々、中でお茶をたてていると、
若いお寺のかたがはなしをしてくれた。
若いお寺の方には、
本堂などを案内してもらった。
30歳くらいまでは、会社に勤めていたが、
思うところがあり、現在お寺で修行中。
幽楼のいわれは、
流罪となり関東にこられた親鸞さま。
幽棲、俗世間から離れてひっそりと暮らそうとしたことからか。
9/12/20

山より本堂をみる

親鸞聖人御頂骨堂
親鸞が京都で亡くなると、
恵信尼の意志もあり、
西念寺二世の教念が遺骨(頂骨)を稲田に持ち帰った。
(説明板より)
境内右手を上ったところ。
六角堂。親鸞の遺骨の一部が納められている。

太子堂  
笠間城主時広の建立。
1582年、時広は磯部にて水谷幡竜と戦いて敗走。
西念寺に入り聖徳太子の尊前にて自害しようとする。
当山十五世の了与これを止め、
単騎長槍を執って幡竜の陣に向い和議を結べり。
時広厚く感謝する。
太子の仏敵守屋を誅せらるるとする。
堂宇を建て制礼を揚げ15石の仏供田を寄進する。
太子の尊像は、宗祖の御自作と伝えられる。
草庵では、御本尊の右に太子、左に法然上人を安置して崇敬。
(説明板より)

稲田御坊西門

見返り橋   
1232年、親鸞が 妻恵信尼と別れをされたと橋のあったところ。
「別れじを さのみなげなく 法の友 また会う国の ありと思えば」
と歌われている。  

見かえり橋から西念寺をみる

■稲田御坊参りの歌 (パンフレットより)
1 
ここは関東北東部 
筑波へつづく里なれば 
四方の山々美しき 
水戸線稲田というところ
2 
歴史は長し八百年 
その昔 親鸞聖人が 
二十年 み杖をとめられし 
ゆかりも深き ご禅坊
3 
長き参道 杉木立 
大樹のしげみ深くして 
朝な夕なに通われし 
祖師聖人の御姿
4 かやぶき屋根の山門を 
くぐれば尊きご庵室 
教と行と信と証 
ご親切なる筆のあと
5 親鸞聖人 お手植の 
お葉つきいちょうは天をつく 
枝の広さよ 
み仏のみ心なりと 仰ぎみる
6 五十二才のおんときに 
浄土真宗 ご開びゃく 
われもーわれもと草庵へ 
教えを乞いし 人あまた
7 
肉食妻帯なればこそ 
煩悩具足と妻や子を 
共に浄土へ手を引きぬ 
家庭の父のなつかしさ
8 
鹿島明神 百ケ日 
法座に通いて弟子となる 
お礼のしるしに献上す 
神原の井の水清し
9 
祈祷にはげむ弁円は 
炎のやいばに身をこがし 
稲田草庵 おそえども 
み徳に打たれざんげせり
10 み返り橋にたたずめば 
小川の流れはゆくりなく 
名残り惜しさに振り返る 
み胸め中ぞ いかならん
11 
わが宗風のたぐいなき 
婦徳も高き恵信尼公 
その信 あつきご生涯 
玉日ご廟と仰がれぬ
12 
ご帰洛なされて三十年 
ご遷化悲し報あれば 
稲田の二世教念は 
ご頂骨をば 供奉し来ぬ
13 
したためられし真実の 
教えは世界の宝なり 
涙でつづったお聖経 
そのみさとしに安らぎぬ
14 真宗門徒の里がえり 
ふるさと稲田の土に立ち 
なむあみだぶつ なむあみだ 
尊いご縁にあいました
■石川信昌について
稲田御坊西念寺は、笠間氏滅亡、宇都宮氏断絶 庇護者を失った。
1602年、境内地の寄進・整備をおこなった。
功により、教如上人より、稲田院釋西念の法名がおくられている。
(説明板より)