2003/11 愛知県名古屋市 名古屋城  
平城  築城者 徳川家康  
主要城主 徳川氏  
築城年代 1610年 
最終石高 61万石9千石  
城内石垣の総延長は約8.2q  
本丸の全周は多聞櫓で囲まれた構え
観光パンフレット 名古屋城復興協会編 山田秋衛著 
「名古屋城」を参考にさせていただきました。
名古屋駅  駅から歩いて名古屋城にいく

加藤清正像

名古屋能楽堂

正門 再建
名古屋城の玄関口である正門 
1910年に旧江戸城内の蓮池御門を移築  
戦災で焼失
1959年天守閣と共に再建
高さ12m 2階建  白壁塗り 瓦葺 鯱は青銅製

入場券

菊の展示がされていた

西南隅櫓
未申櫓ともいわれる 
西南隅の石垣上に建つ 
空堀をへだて西の丸に面している 
二重三階の隅櫓
西 南両面には軍事用の「石落とし」を
張り出して屋根を付けている 
1891年の濃尾大震災で石垣とともに崩壊
宮内省によって復元 
鬼瓦などに菊花紋が見られる

空堀 
ニ之門から西南隅櫓方を見る

本丸表二之門
二之丸の表御門 
本丸への入口にあたる表二之門  
本丸の南と東に2つの桝形がある  
ここは南の桝形
内門である一之門(櫓門)と
外門である二之門(高麗門)とで構成  
高麗門である二之門のみが現存
門柱・冠木とも鉄板張り 
用材は木割りが太く堅固  
袖壁は土塀で鉄砲狭間を開いている 
屋根は切妻造本瓦葺き

ニ之門の桝形

東南隅櫓
辰巳櫓ともいわれ2重3階 
西南隅櫓と比較して規模 構造はほぼ同じ 
櫓は創建当時の原形を伝える

二の丸よりみる東南隅櫓

東南隅櫓内から二の丸広場を見る

手前ニ之門の桝形石垣と大天守閣 

本丸御殿 
第二次世界大戦で焼失
天守閣の南 
本丸のほぼ中央に建てられた
書院造の大建築  
玄関 表書院 対面所 梅の間 
上洛殿 御湯殿書院 黒木書院 上御膳所など
からなっていた
当初は 
初代尾張藩主徳川義直の住居と藩の政庁として使用 
後に 
将軍が上洛する時の宿館
二条城の二之丸御殿と並んで
書院建築の代表的なもの
本丸御殿復元予想図(説明板より)

大天守閣と小天守閣
大小の天守が連立して建つ 
大天守閣に入るには 
小天守閣に入り天守を結ぶ橋台(渡櫓)を渡る
連結式天守 
1612年竣工 外観5層 
下層に穴蔵1重で 内部は6重  
金の鯱を城頭に頂く  
1945年 空襲で焼失
1959年 復元 鉄骨鉄筋コンクリート造り  
大天守閣は建物の高さ
土台から5層棟まで約36m 石垣の高さ約12m  
小天守閣は高さ24m
大天守閣と小天守閣(手前)

雌雄の金鯱  
雌雄それぞれが 高さ約2.6m 重さ約1,200Kg  
金の使用量 雌雄で約88Kg
本丸内に展示されていた菊の鯱

小天守閣から大天守閣への入口

大天守閣

大天守閣からのながめ

小天守閣と 大天守閣石垣 
不明門へ続く通り

不明門  
戦災で焼失 
1978年再建  
本丸から御深井丸に通じる門  
御内証方の出入りに使われた

不明門北面の剣塀
軒下に槍の穂先を並べ 
忍び返しとして使われた  
天守閣と小天守閣とを連絡する
橋台の西側にも見られる



石垣の勾配と空堀

御深井丸

御深井丸展示館
人形が飾ってあった

御深井丸 乃木倉庫
1棟の倉庫 
乃木希典が建てた 
本丸御殿の障子や屏風などが収納されていた
戦災で少しの流弾による焼失はあったが
障子や屏風は ほとんどは残った

西北隅櫓 国重要文化財
別名 戌亥櫓または清洲櫓 
天守閣の西北にある 
御深井丸の西北隅にある3層3階の隅櫓
外部北面、西面に千鳥破風が作られ、
「落狭間」を備える 
屋根は入母屋本瓦葺
解体修理により
他の建物の古材を多用していることを確認  
名古屋城の建物としては最も古い建物

鵜の首

御深井丸よりみる大天守閣

剣塀

御深井丸より本丸北方側を通り  
二の丸方に歩く
石垣の刻印
城内の石垣に記号を刻んだ石がある  
石垣築造を命じられた諸大名が
自分の運んだ石を他大名の石と区別するために刻んだ

堀  水面には多くの水鳥がいた

右石垣の上には
焼失した東北隅櫓があったと思われる

旧二之丸東二之門  重要文化財
二之丸東鉄門とも呼ばれ 
二の丸東桝形二之門にあったものを
本丸二の門跡に移築 
形式は高麗門 本瓦葺き 
軒回りは漆喰塗り籠めとし 
柱 冠木 扉などには帯鉄を打ち付けている

門裏側

清正石
旧二之丸東二之門枡形をつくる巨石  
加藤清正の石であるとの説話がある

清正の石曳き

加藤清正は巨石の運搬に際し 
多くの美童を着かざらせ 
手に片鎌槍を持って
石の上に立たせ
歌を歌わせた
自らは軍扇をひろげ音頭をとった 
巨石は 
民衆の老若を問わず引網をとって運ばれた

二の丸広場

二の丸茶亭
茶のための座敷および水屋などがある

二之丸東庭園
発掘調査であらわれた北池 
南池 茶席「霜傑」建物跡 
暗渠の四遺構を中心に整備

二之丸庭園
枯山水回遊式庭園

東門側を見る

東南隅櫓

空堀

西の丸展示館 閉館だった

西之丸の榧(かや)の木
樹齢600年以上 
榧の実は武将が出陣の際 祝膳に供した

正門付近

歩いて名古屋駅に
復元イメージ  (説明看板より)

マップ

歴史
名古屋城は近世大名の完成度の高い居城の典型
名古屋の地は古くは那古野と呼ばれ 
室町時代には足利幕府管領 斯波氏の領地
応仁の乱で斯波氏の勢力が衰えると 
駿河守護の今川義元が侵入
1521〜1528年の頃 今川氏親によって築城 
当初は柳ノ丸と呼ばれ 城主は今川氏豊
1532年 織田信秀が奪う 
その後 信長が清州城に移るまで居城とする
1553年 信長が清州城に移ると番城となり その後廃城
1607年 徳川義直が清洲城に入封
1610年 家康は 城地が狭く 水攻めに弱いことから 
新たに那古野を城地に選定
江戸幕府の東海道の要所 
また大坂への備えとして
清州から名古屋へ遷府を決定
加藤清正 福島正則 前田利光ら
北国 四国の諸大名20家に普請を命じる 
動員された工事の労働者は20万人以上

1612年 天守閣や諸櫓がほぼ完成 
徳川義直が初代藩主となる
1615年 本丸御殿完成
1618〜21年 二の丸御殿完成
1634年 上洛殿増築 徳川御三家尾張徳川家居城
明治維新の後、名古屋城に 名古屋鎮台が置かれ
陸軍省の管理
1893年 本丸や西の丸などが宮内省に移管 
名古屋離宮となる
1930年 離宮が廃止 
名古屋市に下賜 一般公開が始まる
1945年 空襲で大天守 小天守 本丸御殿焼失 
三つの櫓(西北 西南 東南) 
三つの門(表二之門 旧二之丸東二之門 二之丸大手二之門) 
本丸御殿障壁画の大部分は焼失をまぬがれる
1959年 大天守再建 小天守再建