本島(ほんじま) 2003/10/25 香川県丸亀市 面積 6.75ku  周囲  16.4kmの島
丸亀市よりフェリーで約35分ほどでつく。信号機のない静かな島。歴史と文化財を訪ねる。
海なかに塩飽本島よこたはり 来よとぞ日とを誘ふならずや 吉井 勇 (雑誌「いっぺん来んかな」より)
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海がきれいで、自然が豊か。島の時間はゆっくり過ぎていくようで、穏かな雰囲気が漂っていた。
本島は、古くから海上交通の要所で、大小28の島々が散らばる海域。塩飽諸島(しわくしょとう)の中心となってきた。
織田信長、豊臣秀吉、徳川幕府までの朱印状を得ている。
江戸時代には,幕府の御用役を務める代りに土地の領知権と周辺での漁業権を認められた人名(にんみょう)の制があった。
丸亀から本島へ 丸亀市のフェリー乗場

フェリーから見る丸亀港のようす

フェリーより丸亀市を見る。讃岐富士。
 

 
瀬戸大橋

塩飽勤番所
本島港から歩く。地図も持たずに行ったのでどこに何があるのかわからず地図を探す。
レンタル自転車を貸してくれる所で地図を探す。「本島パークセンタ」というところに人はいなかったが島の地図があった。
地図を見て歩くルートを決める。帰りのフェリーの時間もあるので午前中くらいで見ることができる範囲とする。
本島港近く。 ちょっと先に「本島パークセンタ」がある。

歩いてしばらくすると「塩飽勤番所の長屋門」のところにつく。
門は開いたばかりだったようだが、受付の方に大変親切に案内していただいた。
本島が「しまおこし」をされている姿勢が伝わる。知らない所で親切にしていただけると大変に嬉しい。
塩飽諸島には、江戸時代 1250石の自治を許された、650人の船方衆がいて、「人名」と呼ばれた。
その中から選ばれた「年寄」が島の政治をおこなっていた。
塩飽勤番所は、1798年につくられた。年寄たちが交代で政務を執った海の政所。
塩飽勤番所の長屋門

通りに面した長屋門

塩飽勤番所本館
年寄たちが執務した所。「政務の間」「表座敷」など部屋が沢山あった。
徳川家康の朱印状などが展示されていた。1860年太平洋を横断した「臨海丸」の資料もあった。
臨海丸の水夫50人のうち、35人は塩飽出身者だった。塩飽の航海技術が当時日本ではトップだった。
(パンフレットと説明看板による)

歩いて東光寺というお寺に行く。
本島にはお寺がたくさんあるようだ。平安時代の仏像があることは中央、京都との交流も盛んだった。
昔栄えていた頃は、檀家もありやっていたのだろうが、今はそのような感じをうけなかった。
東光寺から笠島まち並保存地区まで歩く。
途中、見かける人は、「おじいちゃん」「おばあちゃん」が畑ではたらく姿。
天候はまったくよい。途中、きれいな海岸「新在家海岸」に出る。海の水はきれい。瀬戸大橋もきれいに見える。
釣りをしている人も見かける。パンフレットによれば「すべての磯がポイント」らしい。
新在家海岸と瀬戸大橋

笠島まち並保存地区
歩いてくるとちょっと不思議な町並 「笠島まち並保存地区」となる。
国の「重要伝統的建造物群保存地区」の選定をうけている。建物の多くは、江戸後期から大正に建てられたもの。
東西南北約200mの範囲を占める集落。道路は城下町のつくりと同じ。町屋形式の家並みに伝統的景観がみられる。
笠島まち並保存センター (たぶん真木邸 江戸時代の建物)

笠島まち並保存センター内のつくりの一部 太い柱とナマコ壁

保存センターの中に入ると説明をしてくださる方がおられた。
「町並は国からの補助もあり外観はかなり整備されてきた。」
「建物の中までは手が届いていない所もある。」 
「もともと、人が住みつづけてきた家並み。現在では、少しづつ住む人が減ってきていて残念。」
「島には若い人が働く所が少ない」 「島を出て町に行くには便がよくない。」 「今、空家が増えてきている。」
このようなことを言っておられた。 自然豊かな、立派な町並みの 残っている島・・・・・・。
人が減りつづけ、若い人が減っている島。何か日本の進んでいる道が、間違っているようなきがしてならない。
過疎化と都市への集中。地方の活性化なしに日本はどうなってしまうのだろう??? 「何かおかしい」
マッチョ通り?



東小路

ふれあいの館

不思議なことにお土産やさんは皆無。ふれあいの館は最近ようやくオープンしたとのこと。 コーヒー、軽食が可能なようだった。
年寄宮本家の墓
塩飽人名の年寄宮本家累代の供養墓。 
一番大きいのが1627年に建てられた初代の墓で高さ3m。

木烏神社 泊地区の産土神
本島港とフェリー

本島マップパンフレットより)


笠島まち並保存地区マップ(パンフレットより)

(パンフレットおよび説明看板を参考)