2003/09 神奈川県小田原市 小田原城  
平山城   築城年  1417年頃  築城者  大森頼春 北条早雲
主な城主 北条早雲 北条氏康 北条氏直 大久保忠世
小田原の駅から城をみる
豊臣秀吉の来攻に備え 
1587年から修築と拡張に注力 
三の丸外郭に総延長約12kmの土塁と空堀の総構えを築く
[2006/10/08 Yさんからのメールより] 
小田原駅は総構えの一部どころか、
江戸時代でも城の中だったと思います。

駅から少し歩くと二の丸堀がみえてきた
小田原城二の丸堀

二の丸と三の丸跡を渡る橋。  
江戸時代にはなかったと思われる。
[2006/10/08 Yさんからのメールより]
「学び橋」は昭和の戦前に作られたものだと思います。
以前「学ぴ橋」を渡ったところに、
小学校(城内小学校)がありました。 
そこへ行くための橋なので、
「学び橋」と名づけられたと思います。  
4年半この「学び橋」を渡って、
私は城内小学校に通いました。
現在、城内小学校は内堀の南隣、
三の丸跡に有った別の小学校と合併し、
三の丸跡に新築されております。
歴史的な風致地区なので、
城の外に追い出されたようです。
私が城内小学校へ通っていた頃は、
隅櫓(再建で本来の大きさより小さいらしいです)しかなかった。
その他は関東大震災で崩れたままで、
まさに「小田原城址」そのままでした。
当時は皇族の別荘/離宮だったそうです。
地震で宮家のお姫様が亡くなったと、
母から聞いたことがあります。
現在のように、何とか門などが再建(?)されてからは、
小田原へ行ったときでも城跡へは行ったことがありません。
天守閣だけの時一度だけ上ったことがあります。 
今の城跡へ行くと、
きっと私が知っていた頃の記憶が消えてしまいそうです。
学び橋

二の丸隅櫓
1934年に再建

お堀端桜並木
お堀端付近には、約700本の桜の木がある。

二の丸にかかる橋  
馬出門土橋 めがね橋?



馬出門土橋(めがね橋)を渡ると
銅門枡形がみえる。

左折してみる 馬屋曲輪跡
建物は観光案内所

銅門(あかがねもん)枡形と住吉橋
江戸時代小田原城二の丸の表門。 
石垣による桝形。 
内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門形式。
1872年に解体後 
1997年に復元。  
大扉などの飾り金具に銅が用いられた。
掛かっている橋は住吉橋、 
橋から入る門は内仕切御門といわれる。



銅門

二の丸より見る銅門

小田原城歴史見聞館
小田原城の歴史を小田原城の模型や映像で展示  
「北条5代ゾーン」「河越の夜戦」カラクリ人形芝居などがある
江戸時代の建物を模造して、宿場町小田原を再現している

虎の印判
記念スタンプが「虎の印判」になっている。 
「虎の印判」は北条氏代々の公式文書に押した印
印の上辺には虎が座している 
世の平穏を願った「禄壽応穏」と刻まれている

常盤木橋

常盤木橋の左右の堀は畑(田んぼ?)となっている

常盤木門
本丸の正面に位置する 
多聞櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式 
1703年大地震で崩壊  
1706年再建 
1870年の解体 
1971年に復元  
常盤木とは常緑樹の意味。
小田原城が永久不変に繁栄することを願い名付けられた。

天守
1703年の大地震で倒壊 
1706年再建  
1870年解体 
1960年復元  
続櫓付き複合三重式 地下一階地上四階
鉄筋コンクリート造り 
総面積1,822u  
古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料を展示
高さは鯱を合わせて約30m 
最上階からは相模湾を一望できる

天守より見る本丸御殿跡  
本丸御殿は 将軍の旅宿専用だったらしい

最上階から相模湾をみる

本丸から南曲輪に向かって歩く

常盤木橋と本丸東堀



南曲輪南掘の蓮

銅門と馬出曲輪跡

二の丸御殿跡
藩主の居館や行政を行う政庁としての役割をもつ  
能舞台や唐門もあったらしい

御用米曲輪

天守閣を天守入口より反対からみる

パンフレットより  

小田原城歴史見聞館内の模型

天守閣  パンフレットより

小田原城の歴史  パンフレットより
1180年 鎌倉時代初期 小早川遠平が小峰山に居を構えた
1417年 大森頼春 小田原へ入部 大森氏が小田原城築城
1495年 伊勢宗瑞(早雲)小田原城を奪取
1561年 上杉謙信10万の軍に囲まれる 
約1ヶ月の攻囲戦 上杉軍を退ける  
本丸が現在地に移り 二の丸の外郭ができる
1569年 「甲相駿三国同盟」が破棄 
武田信玄3万の軍に囲まれる  
3日間の戦闘の後 信玄軍を退く 
三の丸外郭着手
1587年 豊臣秀吉は関東・奥州の大名に「惣無事令」を発する  
小田原城の大修理・整備工事 三の丸外郭が完成
1588年 北条氏政・氏直は氏規を上洛させ秀吉の臣下となる
1589年 名胡桃城奪取事件が勃発 
秀吉は北条氏直に対し宣戦布告
1590年 豊臣秀吉の侵攻に備え 「惣構え」を構築   
「小田原合戦」豊臣秀吉22万(30万?)の軍に囲まれる
3ヶ月の籠城 支城網を陥とされ 城内に内通者が続発  
降伏開城 北条氏政・氏照等切腹 氏直は高野山に蟄居
小田原北条氏滅亡 大久保忠世が入城
1614年 大久保忠隣改易 
小田原城は三の丸以内に規模が縮小  
初期天守が建設される
1619年 阿部正次入封
1632年 稲葉正勝 小田原入封 
小田原城の近代化工事に着手
1675年 小田原城の近代化工事 ほぼ完了
1686年 大久保忠朝 小田原入封 
以後 幕末まで大久保氏が襲封
1703年 大地震発生 小田原城大破 天守・櫓等倒壊
1706年 天守再建
1870年 小田原城廃城 天守・櫓等解体撤去
1923年 大地震発生 石垣等破損 二の丸隅櫓倒壊
1934年 二の丸隅櫓復興
1960年 天守閣復元
1971年 常盤木門復元
1997年 銅門復元
「小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」により
江戸時代末期の曲輪取りを標準に、
復元整備が予定されている