2003/09 静岡県掛川市 掛川城 
別名 雲霧城  平山城 築城主 朝比奈泰熈  
主な城主 朝比奈、山内、松平、青山、北条、井伊、
小笠原、太田氏など11家26代の譜代大名
1993年に日本初の本格木造天守閣として復元。
掛川駅

掛川城はJR掛川駅から 約400mまっすぐ進むと掛川城となる。
通りのショーウィンドウにあった城の焼き物

逆川にかかる橋

逆川

城の縄張り

掛川城公園の石碑

城の外観イメージ。
手前左 二の丸。 右 三の丸、 御殿がある。
奥左 本丸  右 天守台
左の水は現在の逆川

■歴史
1505年。朝比奈泰煕が今川義忠の命により天王山に掛川古城を築く。
1513年。朝比奈泰煕 泰能2代により現在の地に掛川城が建築される。
1522年。城中天守丸に霧吹井戸を掘る。
1568年。今川氏真は武田氏に駿河を追われ掛川城に立て籠もる。
徳川家康掛川城を包囲。
1569年。徳川家康により開城。
家康は重臣石川家成を城代とする。
武田防御の拠点とする。
1590年。近江長浜から山内一豊が入城。
掛川城を近世城郭として整備するため大規模な修築。
1596年。天守閣完成。大規模な城郭修築 城下町の整備をすすめる。
1600年。関が原の戦いに 城主山内一豊は西上する徳川軍に城を開放。
1601年。関が原の戦いの功により山内一豊 土佐高知に移る。
松平定勝 掛川城に移る。
1617年。安藤直次 掛川城に移る。
1619年。松平定綱 掛川城に移る
1623年。中野重吉 掛川城を預かる。
1625年。朝倉宣正 掛川城を預かる。
1633年。青山幸成 掛川城に入る。
1635年。松平忠重 掛川城主となる
1639年。本多忠義 掛川城主となる
1644年。松平忠春 掛川城に移る。
1648年。北条氏重 掛川城主となる
1659年。井伊直好 掛川城主となる。
1706年。松平忠喬 掛川城に移る。
1711年。小笠原長煕 掛川城主となる。
1746年。太田資俊 掛川城主となる。
1854年。大地震により天守閣など大半が損壊。
1861年。御殿再建。
1869年。廃城となる。
1980年。御殿 国の重要文化財に指定される
1990年から1993年。当時の様子そのままに
日本初の本格木造により天守閣が市民寄付により復元。
1993年。天守閣は、木造により再建。
1995年。大手門復元。
平成に入ってからひとりの婦人が
「お城の復元に」と大金を寄付。
掛川城天守閣を木造で再現することになる。
市民からの寄付など、市民の力で天守閣を復元した。
日本で初めて木造で天守閣を再建。
四足門
本丸に通じる門。正保絵図に基づいて復元された。

堀は、本丸を囲む三日月堀・十露盤堀・松尾池などの内堀と
場外には外堀が巡らされていた。
三日月堀

十露盤堀

太鼓櫓
太鼓櫓は、城下に時を知らせる大太鼓をおさめてあった建物。
時を知らせる大太鼓を納め 
時間になると太鼓を打ち鳴らした。
太鼓櫓の中には入れない。
本丸より見る太鼓櫓

本丸
本丸門跡と本丸跡

本丸より天守閣を見る

登閣路

天守下門

天守閣
外観三層、内部四階。
天守閣本体は6間×5間(約12m×10m)。
東西に張り出し部を設けたり、
入口に付櫓を設けたりして、
外観を大きく複雑に見せている。
1階、2階に比べ四階の望楼部が小さい。

山内一豊が在城10年間に、
天守閣の建立・城下町の整備を行う。

1854年。旧天守閣は 大地震で被害を受け取り壊された。
1990〜1993年。史料を元に日本初の本格木造により考証復元。
復元資料は、天守台の遺構、幕末の絵図。
正保の絵図、高知城、安土桃山時代の城郭との比較研究他による。
霧吹き井戸
城を守った霧吹井戸。
徳川家康が城を攻めた時井戸より霧が立ちこめた。
城を包み込んで攻撃を防ぎ城を守ったという伝説がある。
掛川城は、『雲霧城』ともよばれる。
この霧吹井戸の深さは 日本第3位の45m。
1位は丸亀城 2位は松山城。

石落し
天守台の張りだし部に設けられている。
石を落したり、槍を突き出したりして、
石垣を登ってくる敵を防ぐ。

軒唐破風のきからはふと火燈窓かとうまど

天守台からの眺め
掛川市を眺望する天守台は、海抜56m。
緑に囲まれた街並みが見渡せる。

登閣路の先は太鼓櫓。
左は三の丸  右は本丸。

御殿

腰曲輪

腰曲輪よりみる天守閣

二の丸へ続く

腰曲輪
三の丸から見る天守閣

腰曲輪の先に太鼓櫓がみえる

腰曲輪と御殿をむすぶ石段
城阯の遺構発掘調査で、
登城路の道筋や本丸を囲む堀の位置などが明らかになった。

二の丸茶室
掛川市はお茶が特産品。
お菓子とお茶のセットを頂く。

掛川城御殿(二の丸御殿) 国の重要文化財

1854年 大地震で被害を受け倒壊
1861年再建。
二の丸に建てられた江戸時代後期の建物。
公的式典の場 藩主の公邸 藩の役所としての機能を持つ。
現存する城郭御殿としては、
京都二条城など全国で数カ所にしか残っていない。
天守閣からみた御殿 三の丸  右側の広いところが二の丸跡

書院造と呼ばれる建築様式。
畳を敷きつめた多くの室が連なり各室は襖によって敷きられている。
案内の方に、親切に説明してもらう。
御殿が残っているのはめずらしい。
殿様の寝た所はどこか?
7棟よりなる書院造。部屋はそれぞれの用途に応じ、
約20部屋に分かれている。
対面儀式が行われる書院棟
書院上の間 主室。次の間 三の間 謁見者の控え。
殿様公邸の小書院棟
小書院 藩主の執務室。長囲炉裏の間 藩主の居間。
藩政を司る諸役所の部屋。
玄関からはいり廊下の右側は藩政を司る諸役所の部屋。
目付 奉行など役職の部屋 警護の詰め所 書類の物置などがある。

玄関
江戸時代には、身分によって入口が異なっていた。
藩主や城代は車寄せ玄関に駕籠などを乗り付ける。
上級武士は玄関東側。
足軽は北側の土間から入った。

玄関屋根の起破風(むくりはふ)

掛川市二の丸美術館
1998年オープン。
美術工芸品が展示されている。
企画展により横山大観 小倉遊亀らの画を見ることができた。

模型がおいてあった

大手門側からみる天守閣

途中で見つけたスケッチ画。
大手門からお城をみている。
逆川 太鼓櫓 天守閣が描かれている。

大手門
天守閣から東南に約250mのところにある。
復元された大手門。
木造瓦葺き入母屋造り。
屋根にはシャチ瓦がある。
間口12.7m、奥行5.4m、高さ11.6m。

大手門番所
江戸時代末期に場内を出入りする者を監視する役人が詰めた所。
この種の建物が遺っているのは全国的にも珍しい。

掛川大祭の壁画

掛川城をみて掛川市の方々のお城にかける情熱を感じた。
皆でお城を中心に町おこしをして
昔の遺構を守って行こうとする気概を感じた。