01/3/24他 水戸市常磐町 偕楽園
偕楽園表門から入る
水戸駅からバス
バス停「好文亭表門」を降りて
表門に向かって歩くと
途中このような看板。
偕楽園は12.7ヘクタールの広さ。
金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ
日本三名園の一つ。
千波湖、桜川など周囲の自然環境を巧みに取り入れ、
園内中央に梅林を、
高台に好文亭を配している。
表門付近の西北部には老杉や竹林。
周辺の湖水と田園風景を取り入れ自然との調和を図り、
四季の風情や明暗に富んでいる。
千波湖から偕楽園をのみる
千波湖の桜
偕楽園は 梅の公園として名高い。
1833年徳川斉昭が藩内を視察した。
南に千波湖が見え、
紫峰筑波山や大洗方面が遠望できる
現在の地に遊園を作ることを決めた。
自ら造園計画を練って創設したといわれる。
1841年から造園工事が開始され,
1842年7月1日に完成。
同園本園、桜山および丸山が開園した。
偕楽園の名称は、
中国「孟子」の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、
故に能(よ)く楽しむなり」という一節からとった。
同園は家臣や領民が自由に遊び、
休息するための施設で、
人としての健全育成に必要な心身の保養地とされた。
梅まつり期間には土・日曜を中心に偕楽園臨時駅が開設される。
下り方面の列車のみ停まる。
偕楽園は入場無料。
偕楽園にある常盤神社の境内ではたくさんの屋台が並んでいる。
水戸納豆から梅まで、
水戸の特産品が目立つ。
梅まつり期間は屋台が多く出る。
偕楽園ミニ知識(園内パンフレットより)
徳川斉昭の梅林計画−食用梅としての偕楽園の梅。
斉昭は偕楽園の創設に先がけ、
1833年にその母体となったといわれる梅林計画を立てている。
翌年、七面山と呼ばれる台地の一角を切り開き、
飢饉と軍用の非常食とするため、
梅の木を植えさせたといわれる。
1841年4月、偕楽園の造園や好文亭などの建築工事が始まり、
1841年7月に完成、開園となった。
御所梅
土地は国有地。
偕楽園の土地そのものは国有地で広さ約11ヘクタール。
これに近年、南西の崖下約1.7ヘクタール(県有地)を公園化し、
従来の偕楽園に加えた。
さらに、千波湖の西側地域を中心に
県が大規模な都市公園を造成している。
現在偕楽園と合わせて約46.8ヘクタールの広さを持つまでに整備されている。
余暇,休養の場として
1839年斉昭は、偕楽園創設の趣旨を「偕楽園記」の碑に、
民と偕(とも)に楽しむための施設造りの構想示している。
偕楽園開園の前年には藩校・弘道館を開いており、
偕楽園に弘道館の付属施設的性格をもたせたとみられている。
文武修業の場である弘道館に対し、
偕楽園は修業の休養の場とされ、
水戸藩文教政策の一環をなすものといわれている。
好文亭
千波湖の景観を借景
偕楽園は当初から前面の
千波湖一帯の景観をそのまま取り入れた
借景造園法で造られている。
千波湖は現在、埋め立てなどにより面積が33.2ヘクタール、
周囲3.1kmで、水深{ま60cmから1.6m程度。
湖と呼ぷには小さく、池か沼といった感じになったが、
一帯の風光を水戸藩歴代藩主や文人が愛した。
詩文などに千波湖や仙湖と書いたこともあって、
湖と呼ぶことが定着している。
春には湖岸にぐるりと植えられた桜が美しく咲きそろい、
市民の憩いの場となっている。
■表門
茅葺き切妻造り、
角柱の主柱(二本)と副柱(二本)でささえられ、
両側には、瓦葺の袖塀。
1945年の戦災に焼け残る。
開園当時の姿をとどめる。
黒塗であったところから「黒門」ともよばれる。
現在は、東門が主な出入り口として使われている。
本来の表門はこちら。
表門を入って少し歩くと「一の木戸」がある。
孟宗竹林
鬱蒼とした竹林。
吐玉泉と太郎杉。
吐玉泉(とぎょくせん)
清らかな水をたたえる吐玉泉。
一服の清涼感を醸し出す。
表門と好文亭の間の、杉木立と熊笹の道を折れ
階段を下りると、大理石の井筒の間から、
こんこんと涌き出す泉。
昔、好文亭の茶会には、この水が使われた。
井筒の大理石は日立市と真弓山の寒水石。
江戸時代から今日に至るまで水は枯れたことがない。
太郎杉。
樹齢750年。
杉林
好文亭中門。
表門から入り杉林を過ぎると
好文亭中門を通り好文亭に入る。
芝前門
東門から入ると芝前門を通り好文亭に入る。
檪門(くぬぎもん)
杉林とクマザサ
好文亭
偕楽園記碑
好文亭の東側の柵の外側に立つ碑。
高さ2.5mの自然平石に613字の漢文で
偕楽園創設の趣旨が記されている。
偕楽園の創設者 斉昭が、
自ら文章を作り書にしたものを刻ませた。
偕楽園の本格的な造園工事が始まる2年前の
1839年に建てた。
偕楽園の名称について
斉昭は偕楽園記の最後に
「これ余(斉昭)が衆と楽を同じくするの意なり。
よってこれに命じて偕楽園という」
と記している。
碑の裏側にも漢文で
「入園は午前6時から午後10時までとし、
男女の別を守り、
酔って暴れたり騒いだりしてはいけない」
などと入園の心得が刻されている。
これ以外にも偕楽園の利用方法が細かく定められている。
一般領民は決められた日のみ入園が許されていた。
現在の公園とはかなり性格が違う。
当時としては画期的な
「偕楽=偕に楽しむ」
を実践した施設だった。
柳川枝垂
二季咲桜
秋から冬にかけてと,春に咲く。
初代の樹は,
水戸藩士久米某邸内にあったものを
移し植えたと伝えられている。
黒田
東門
来園者がもっとも多く出入りする門。
常磐神社に隣接している。
東門付近のお土産やさん
江南所無
10.茨城百景の碑と洞窟
南崖の洞窟
約330年前の光圀時代から
第9代藩主斉昭時代にかけ
「神崎岩」と呼ばれた石を採掘した跡の一つ。
洞窟は延長150m。
謎を残す南崖の洞窟
偕楽園には今もナゾの部分がいくつかある。
その代表が南崖の洞窟。
現在、入り□は格子柵で閉ざされているが、
園内南側の崖面下方に大きい穴がある。
園外東方の崖面にも同じような穴が多数ある。
江戸時代に水戸藩が
「神崎岩」と呼ぱれた石を
笠原水道の岩樋などに使うため採掘した跡。
しかし、南崖の洞窟は、
偕楽園が水戸城の出城的役割を果たしている。
水戸城へ続いている抜け穴ではないか?
1968年に、本格的な調査が実施された。
その調査報告書によると、
壁面はノミ跡か認められ
人工的に掘った穴と判明した。
内部は極めて複雑な構造で、
採石のために掘ったとは思えない
入りくんた横穴が続いていた。
湧水による池や土砂で埋まっている部分もあり、
抜け穴は確認できなかった。
江南所無
水戸八景の碑
僊湖暮雪の碑
中国の瀟湘八景になぞらえ,
水戸藩内の景勝の地八ヶ所を選んだ。
水戸八景と定めた。
ここはそのひとつ>
碑は烈公の書。
水戸八景
徳川斉昭作
雪時嘗て賞す仙湖の景 せつじ かつて しょうす せんこのほとり
雨夜更に遊ぶ青柳の頭 うやさらに あそぶ あおやぎの ほとり
山寺の晩鐘幽比壑に響き やまでらの ばんしょう ゆうかくに ひびき
太田の落雁芳洲を渡る おおたの らくがん ほうしゅうをわたる
花香爛漫岩船の夕べ かこう らんまん いわふねの ゆうべ
月色瘻瓏たり広浦の秋 げっしょく ろうろうたり ひろうらのあき
遥かに望む村松晴嵐の後 はるかにのぞむ むらまつせいらんのあと
水門の帰帆高楼に映ず みなとの きはん こうろうにえいず
子規の碑
崖急に
梅ことごとく
斜めなり
正岡子規が偕楽園を訪れた際,南崖の梅を詠んだもの。
観梅碑
雨やんで林なおうるおい
煙は遮(さえぎ)って湖なかば明らかなり
梅花の香
地に満ち
春水の緑
城に通ず
百里賢侯の躅(あと)
千秋志士の名
亭台爽木豈(そうがい)に依り
延眺情に勝(た)えず
七曲が坂
観梅碑の近くに在る七曲が坂
南門
御成門
園の北側の門。
常磐神社と義烈館
常磐神社
能舞台
浪華梅と歌碑
観梅客でにぎわう偕楽園。
その隣、常磐神社の義烈館の前に1本の梅の木と歌碑がある。
梅の木は、光圀公が浪華から取り寄せて、
「大日本史」の編纂所である彰考館の前庭に植え、
「浪華梅(なにわのうめ)」と名付けたもの。
明治に入り
「浪華梅」が絶えうせることのないようにと
常磐神社に移し替えられた。
今我々が目にする梅の木は、
そのひこばえ(草木の根株から出た芽)だという。
家の風
今もかをりのつきぬにぞ
文このむ木の
さかりしらるる
歌碑に刻まれているこの歌は、
斉昭公が、彰考館を訪れたとき、
100年以上の時を経て老木となった「浪華梅」が香りを伝えていたので、
この歌を詠み、彰考館の柱に書き付けたという。
歌には、光圀公の意志を受け継いでいくという
斉昭公の志がこめられている。
さらに、歌碑に刻まれているこの歌の書は、
1903年頃慶喜公が書いたものだ。
碑の裏面には、
「大日本史」の完成に尽力した栗田寛が記した
「浪華梅」の由来が刻まれている。
大日本史完成之地碑
本史完成之地の碑について
大日本史は 1657年水戸第2代藩主徳川光圀侯が
編纂に着手されてから歴代の藩主が継承し
250年を経て1906年この地で完成。
本紀・列伝・志・表4部,計397巻226冊からなり,
神武天皇から後小松天皇までの歴史を
紀伝体で記載。
朱子学の名分論の立場にたち,
大友皇子(弘文天皇)の即位を認め,
南朝を正統とするなどして尊王論の伸張に寄与し,
水戸学を生んだといわれる。