04通史概説
水辺とともに生きた東海村。
■古代 古来。
久慈川・太平洋に接する。
真崎浦の入り海があった。
久慈川や真崎浦の水辺環境。
約160の遺跡を確認。
■旧石器詩代。
遺跡は見つかっていない。
ひたちなか市や日立市では遺跡を確認。
■縄文時代。
阿漕ヶ浦・真崎浦・細浦は入り江。
魚介類などの食糧確保場所だった。
約60か所の遺跡が確認。
久慈川右岸と真崎浦周辺が多い。
石神・御所内・平原の貝塚、須和間の弥生時代遺跡、
権現山古墳・舟塚古墳群
水辺環境と関係が深い。
■弥生時代。
低湿地を中心に稲作が行われる。
須和間遺跡は、住居跡・方形周溝墓ほ確認。
■古墳時代
権現山古墳・舟塚古墳・別当山古墳・白方古墳。
多くの古墳がある。
■中世。
真崎城・石神城が築かれる。
村松虚空蔵堂・如意輸寺もつくられる。
真崎浦入り海の北側。村松虚空蔵堂。
南側の高台に如意輪寺。
真崎浦を守る配置。
須和間と外宿の住吉神社も水辺環境の守護と関係がある。
須和間はもとは「洲浜」と呼ばれた・
真崎浦の入り海に面した小さな港。
住吉神社の祭神は底筒男・中筒男・表筒男。
海神で港などに祀られる神。
■平安時代末期。
吉田郡内に属していた。
白方郷には吉田興幹が土着。
白方次郎と名のり、地頭となる。
興幹の館は、現在の豊受皇大神宮の境内。
社殿の周囲は、高さ3mの土塁が東西約60m、南北50mある。
■室町時代から戦国時代。
東海村辺りを支配は、真崎氏と石神小野崎氏。
●真崎氏。
佐竹氏の支族。
白方郷に近い真崎に館を構え。
地名を名字として名乗る。
真崎浦に突き出した半島の先端で、
入り海に出入する船を監視。
沿岸の住民を支配した。
●石神小野崎氏。
秀郷流藤原氏の遠祖で佐竹氏に仕える。
石神に館を構えた。
太田城下の河合から石神までの久慈川流域を交配。
石神城を拠点に久慈川の舟運を掌握。
■近世。
中世末期から近世初期
真崎浦の入り海は、海が後退。
村松と照沼か陸地化。
1594年。豊臣秀吉の太閤検地。
竹瓦、亀下を除く久慈川以南の地域が那珂郡になる。
1602年。佐竹氏が出羽秋田へ移封。
水戸藩の領地となる。
初代藩主は徳川頼房。第2代藩主は徳川光圀。
江戸時代末期慢性的な農村の荒廃が続く。
1842年。 第9代藩主・徳川斉昭は、天保検地を実施。
1833年〜11834年 徳川斉昭は、領内を巡視。
領内の景勝地を「水戸八景]として選定、
「村松晴嵐」もそのひとつに選ばれる。
1856年 那珂湊西野長次郎が真崎浦の干拓開始。
水戸藩尊王攘夷派と幕府追討軍との戦乱。
1864年。真崎浦の干拓中断。
■近代
1871年。廃藩置県。
水戸藩は水戸県となる。
その後、名称も茨城県と変わる。
1875年 現在の茨城県の県域が確定。
1888年 市制町村制が公布
1889年
村松・石神白方・石神豊岡・須和間・船場・照沼が村松村になる。
亀下・竹瓦・石神内宿・石神外宿・舟石川が石神村になる。
1897年 鉄道が敷かれる。
1933〜8年 真崎浦の開拓・完成。
1918〜53年 村松海岸の防砂林植栽事業の実施と完成。
1935年 結核の治療と研究の村松晴嵐荘創設。
■現代
1955年。村松村と石神村が東海村になる。
1956年。原子力研究所設置の決定。
1959年 原子燃料公社東海製錬所開所。
1966年。日本原子力発電営業運転開始。
1997年 動燃東海事業所、アスファルト固化施設で火災・爆発事故。
1999年。 ジェー・シー・オー東海.業所で臨界事故。
■おまけ
現在世界では、自然破壊から緑多い地球を取り戻そうとされている。
一度失った自然は簡単には取り戻せない。
人間の自然に対する傲慢さに生じた。
水辺とともに、自然に生かされ、生きた東海村も同じ。
人災とも思われる原子力関連事故。
東海村の課題は多い。
(2000東海村村勢要覧・村の歴史と群像を参考に作成)