06飯盛山。 福島県会津若松市一箕町八幡弁天下。
市街地の東の郊外、
鶴ヶ城や城下町を一望に見渡す飯盛山。
白虎隊自刃者19士の墓のある飯盛山への入り口。

ここで、16、17才の白虎隊士が自刃。
石段を登りきった左手に墓がある。
自刃した場所は右手の斜面。
墓の前の広場には
白虎隊をたたえてローマ市民が贈った石柱・
ドイツ大使館武官が贈った碑がある。
階段が急。
階段横にエスカレータがある。.
資料館 お土産やさんで結構賑やか。
冬、階段を雪が覆う。
■戸ノ口堰洞穴。
今から約350年前、元和年間、
猪苗代湖の水を会津地方に引くため郷士八田氏が起工。
元禄年間まで工事が続けられた。
天保3年会津藩士佐藤豊助が藩命により
飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけた。
これにより、水田2500haの灌漑に供することができた。
使役人夫5万5千人と3ケ年の歳月を費した。
白虎隊士中二番隊は、
戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが
戦いは不利となる。
隊士20名は城の安否を確かめようと
戸ノ口堰洞穴を通り飯盛山に到着した。

■さざえ堂。
円通三匝堂 
寛政8年 平宗喜12代の僧郁堂和尚の考案。
六角形三層で登りと降りが別々の道をとおる。
さざえの殻に似ていることからさざえ堂という。

■白虎隊自刃者19士の墓。
藩主松平容保公の歌碑。
幾人の 涙はいしに 灑ぐとも 
その名は世々に 朽ちじとぞ思う 

みなもとの容保

■佐原盛純作による白虎隊の詩。
会津では今も多くの人が知っている。

白虎隊  佐原盛純   さわら もりずみ
少年団結白虎隊 しょうねん だんけつす びゃっこのたい  
国歩艱難戍堡塞 こくふ かんなん ほうさいをまもる
大軍突如風雨来 たいぐん とつじょとして ふうう きたる  
殺気惨憺白日晦 さっき さんたん はくじつ くらし
へい鼓喧 震百雷 へいこ けんてん ひゃくらい ふるう  
巨砲連発僵屍堆 きょほう れんぱつ きょうし うずたかし
殊死衝陣怒髪竪 しゅし じんをついて どはつ たつ  
縦横奮撃一面開 じゅうおう ふんげき いちめんひらく
時不利兮戦且卻 ときに りあらず たたかい かつ しりぞく  
身裏創痍口含薬 みには そういをつつみ くちにくすりをふくむ
腹背皆敵将安之 ふくはいは みなてきなり はた いずくにかゆかん  
杖剣間行擧丘愕 けんをつえついて かんこう きゅうがくをよず
南望鶴城烟   みなみ つるがじょうを のぞめば えんえん あがる  
痛哭呑涙且彷徨 つうこく なみだをのんで かつ さまよう
社稷亡矣可以巳 しゃしょく ほろびぬ もってやむべしと  
十有九士屠腹死 じゅうゆうきゅうし はらをほふって しす
俯仰此事十七年 ふぎょうすれぱ このこと じゅうななとせ  
畫之文之世稍伝 これをえにし これをふみにして よ ようやく つとう
忠烈赫赫如前日 ちゅうれつは かっかくとして ぜんじつのごとし  
圧倒田横麾下賢 
あっとうす でんおう きかの けん

白虎隊
 島田 磐也 作詩 古賀 政男 作曲 (コロンビアレコード 霧島 昇唄)
1.
戦雲晦く 陽は落ちて 
孤城に月の 影悲し 
誰が吹く笛か 識らねども 
今宵名残の 白虎隊

2.紅顔可憐の 少年が 
死をもて守る  この保塞 
滝沢村の  血の雨に 
濡らす白刃も  白虎隊

(詩吟)
南鶴が城を望めば 砲煙あがる 
痛哭涙を飲んで 且彷徨す 
宗社亡びぬ 我が事おわる 
十有九人 屠腹して僵る

3.飯盛山の  山頂に 
秋吹く風は  寒けれど忠烈今も  
香に残す 花も会津の白虎隊


■飯盛山の自刃の地。
墓と飯盛山からの眺め。 
戸ノ口原から一時退却した白虎隊が
飯盛山より城下を眺め、
猛煙に包まれた鶴ケ城を見た場所。
現在復元された天守閣が森の中に見える

■イタリアより贈られた記念塔。 
昭和3年にローマ市より贈られたもの。
一時米軍より撤去の指令があったが
文字の削除と、党標の剥奪で終った。
文明の母たるローマは、
白虎隊勇士の遺烈に不朽の敬意を捧げる。
古代ローマの石柱とローマの権威を顕わす
ファシスタ党のマサカりを飾り
永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。