00/10/1 石岡市 基調講演 国分寺の創建より  須田勉先生
■はじめに 
国分寺は、
仏教により国家安泰を願う護国思想に基づく。
国毎に創建された僧寺と尼寺からなる。
全国の官寺制度。
尼寺を併設した点で中国と異なる。
全国60余国から壱岐・対馬・種子島におよぶ仏教政策。
■国分寺の創建は、T〜W期にわけて考える 
■I期 
常陸国分寺僧寺跡 (パンフレットより)

729年。天候不順と天変地、天然痘が流行。
聖武天皇を悩ませた。
聖武天皇は自らの不徳を嘆く。
737年。釈迦如来の造像・大般若経一部600巻の書写を命じた。
740年。聖武天皇は、七重塔の造塔・法華経10部の写経を命じた。
百済大寺は九重塔。
平城京で東大寺の七重塔を除き五重塔が一般的。
国分寺の七重塔は地方官寺では壮大。
法華経は尼寺に納められた。
僧寺のみの一寺制が考えられていた。
藤原広嗣の乱。
観世音菩薩像の造像・観世音経の写経を諸国に命じる。
光明皇后の尼寺併設構想。
聖武天皇、伊賀・伊勢・近江をまわる。
恭仁京遷都。
紫香楽宮・難破宮と遷都を繰り返す。
741年。藤原氏が、広嗣の乱の償いに国分寺丈六仏の造像料を施入。
■U期 
741年。国分寺建立の詔が発布。
●本文の要点。
前年は、神宮改修・釈迦牟尼仏を造り・大般若経を写経。
今年は天候が順調で五穀豊穣。
金光明最勝王経に、
「この経を天下に広めた王は
四天王が擁護し一切の災障を除く」とある。
天下諸国に七重塔を造らせ、
金光明最勝王経と妙法蓮華経を書写。
勅願の金字金光明最勝王経を塔毎に安置。
塔と寺は国華で好所を選び永続するよう、
国司は常に厳飾を加え清浄に勤めること。
僧寺に封50戸、水田10町、尼寺に水田10町を施入する。 
僧寺には20僧を置き、寺名を金光明四天王護国之寺と称し、
尼寺には10尼を置き、法華経滅罪之寺という。
僧寺とも教戒を受け、欠員が生じた場合は補充する。
毎月最勝王経を転読し、月半ばには戒羯摩を誦し、
六斎日には漁猟殺生することを禁ず。
国司等は恒に検校を加える。
詔で僧寺・尼寺からなる律令国家が意図した全貌が示される。
藤原広嗣の乱後、
国分寺建立に関する本文と条文が整備され
詔として発布される。
744年。造寺料として4万乗(800石)の出挙稲を施入。
国分寺の造営費用は、地方財源である正税が充てられた。
地方僧官である国師を国分寺造営に参画。
造営の指導権を国司と国師に持たせる。
745年5月。難波宮から平城京に還都。
恭仁宮の処分として山背国分寺金堂として施入。
山背国分寺はこれ以後に造営。
746年。恭仁宮大極殿を山背国分寺に施入。
大極殿は、恭仁宮遷都のさい平城京から移築。
写金字経所で金字金光明最勝王経71部710巻の写経が完成。
■V期
常陸国分尼寺跡 (パンフレットより)

造営督促の詔発布。
国司らの怠緩を責める。 
地域を掌握していた郡領・地方豪族層の力量に造営促進を期待。
協力年限とその内容を具体的に示す。
協力郡領に対し、末代まで郡領職任用を約束。
747年。国分寺造営督促の詔発布。
国分寺制度の重要な点は、
僧・尼寺のニ寺制と僧寺の七重塔。
そこに安置する金字金光明最勝五経にある
国分寺造営に対する国司らの怠緩。
便の悪いところに選地したり、
寺の基を開かない国すらある。
天地の災異はそのため。
中央より地方に視察する者を発遣し寺地を検定。
作状を視察させる。
国司は検定使や国師とともに勝地を選び営膳を加えよ。
協力郡領に対し、3年を限って塔・金堂・僧坊を完成させたならば、
子孫を末代まで郡領司に任用。
741年に施入した水田以外に僧寺に90町、尼寺に40町を開墾して施入。
国分寺の造営は、地方財源である正税をとしていたため進展せず。
打破のため、
郡領をはじめとする地方豪族層の力量に造営促進を期待。
749年。国分寺造営に対し知識物が献納。
747年。詔以後、郡領による当国国分寺への知識物が相次ぐ。
政府は叙位をもって答えた。
叙位にあづかろうとした地方豪族は相当数あった。
■W期 
756年。使いを諸国に遣わし、国分丈六仏像を催検。
勅による使工派遣について再びのべる。
丈六仏像の造像は、来年の聖武天皇の一周忌まで終わらせる。 
仏殿(金堂)も兼ねてそなえる。
仏像と仏殿が終わったならば塔をつくる。
忌日にまにあわせる。
百姓を辛苦させないように事を運び、
朕の意にかなう国司・使工には褒賞を加える。
潅頂の幡などを越後など26国に頒ち下す。
国分寺の発願者である聖武太上天皇が崩御。
冥福を祈るため
丈六仏像および金堂・塔の未完成の国に対し
使工をともなう催検使を派遣。
759年。二寺の図を天下諸国に頒ち下す。
759年。光明皇太后が崩じる。
光明皇太后崩伝に
「東大寺と天下の国分寺を創建するは、
もと太后の勧むるところなり」とある。
女帝的存在であった光明皇太后は、
尼寺の併設を含めた国分寺制度の発案者。
実質的な推進者だった。
760年。国毎に阿弥陀浄土の画像を造り、
称讃浄土教を書写し、
国分金光明寺で礼拝供養させる。
761年。諸国国分尼寺に阿弥陀丈六仏像と
脇持菩薩像を造らせる。
諸国国分寺が斎会が可能なところまでは完成。
国分寺建立の詔から20余年の歳月をついやした。