00/10/1 石岡市。 記念講演 「木のいのち 木のこころ」 小川三夫先生(鵤工舎大工) 
■小川三夫氏経歴。 
1947年栃木県生まれ。
高校の修学旅行で法隆寺五重塔を見る。
これにより、卒業後
法隆寺宮大工の故西岡常一棟梁の門を叩くが断られる。
仏壇屋などで修行後、
西岡棟梁の唯一の内弟子となる。
法輪寺三重塔、薬師寺金堂、三重塔の再建に
副棟梁として活躍。
1977年。徒弟制を基礎とした
寺社建築専門の建設会社「鵤(いかるが)工舎」を設立。
全国各地の寺院の改修・再建・新築等にあたる。
「最後の宮大工」といわれた名工が
西岡常一さん(明治41年〜平成7年)。
その西岡さんが、
ただひとりだけ棟梁として育てた弟子が小川三夫さん。
著書に西岡棟梁の聞き語りの
『木のいのち、木のこころ(天)』の続編(地)編がある。
講演
棟梁から、常々「無駄口を叩くな」といわれてきた。
話は苦手。
■弟子入りと修行。 
高校の修学旅行で法隆寺五重塔を見た。
法隆寺のような五重塔を建てたいと宮大工を志した。
西岡さんのもとに弟子入り志願した。
高校を卒業する直前の18歳のとき。
法隆寺の境内を訪ねると、
西岡棟梁は厨房用の大きな鍋のフタを削っていた。
「いま、こんな仕事しかない」と断られた。
あきらめきれずに手紙を書いた。
ほどなく返事が届いた。
「私の家は代々の貧しい。子弟を養うほどのゆとりがない」  
少しでも宮大工に近い仕事をと、
仏壇屋や島根県の日御碕などで仕事をして待ちつづけた。
「貴君ひとりぐらいなら来られても差し支えない」 
西岡棟梁から、こんな手紙を受け取った。
法輪寺の三重塔の再建が始まった昭和44年春。
弟子入りまでに丸3年かかった。
西岡さんのところに駆けつけた。
棟梁は、まず「刃物を見せろ」と言った。
出した道具をちょっとみるとポイと投げ捨てた。
「こんな道具では使いものにならない」、
「納屋の掃除をしろ」といわれた。
厨子の作りかけのものと
西岡棟梁の道具が置いてあった。
とても素晴らしいものだった。
道具を見せてもらえたのだから
弟子にしてもらえたのだという実感が沸いてきた。
「これから1年間、本を読んではいけない。
テレビ・ラジオ・新聞に一切目をくれるな。
ただ刃物研ぎだけをしろ」
といわれた。
「頭で考えてはいけない。まず体で先に覚えろ」
命じられたのはそれだけ。
あとは何も教えてもくれず、
ほぼ3か月間、毎日、刃物を研いでいた。
ある日、納屋にやってきた棟梁は、
「カンナ屑とはこういうものだ」
そういって1枚のカンナ屑をくれた。
そのカンナ屑は素晴らしかった。
真綿を広げたように向こうが透けて見えた。
こういうことは勉強してもできない。
体に染みこませないとできない。
私は、それから20年間西岡棟梁とは、
ただ一緒にいただけ。
何か特別のことを教えてもらったわけではない。
宮大工の世界では、
ものを積極的に教えてはいけない。
「ものを教えたら甘えにつながる。
その子がやる気を起こすまでほっておく。
半人前のときは回り道をたくさんさせる。
命令したら命令した分しかやらない。
ただほっておくのでなく、
雰囲気や環境だけは作っておいてやらないとだめ。
目に見えない雰囲気が大切」 
鵤工舎でも、新人は1年間は掃除と飯炊きだけ。
「カンナが削りたくてしょうがない」
となったときに削らせてこそ技は上達する。
私が西岡棟梁から教わったのもそういうこと。
一生のうちに教わったのは、あのカンナ屑だけ。
■木のはなし。
大きな木は日本にはない。
アメリカにヒバを買いに行った。
「まだらふくろうがいたら10km四方は伐採してはいけない」
といわれた。
まだらふくろうは色々と動く。
伐採は出来ないということ。
しかし、なんとか伐採することが出来た。
山に入ったとたん、そこの自然は壊れる。
木にも寿命がある。
ポッと種が落ちて育った木の寿命と
植林されたものでは寿命が違う。
ポッと種が落ちて育った木の寿命が長い。
台湾に木を買いに行ったとき台湾の木は「ねばって」いた。
100年も粘っているのだから寿命の長い良い木。
木には二つの命があると棟梁はいっていた。
「自然の中で生育している間の樹齢」と、
「用材として生かされている間の耐用年数」がある。
こうした木だから、
この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目。
1000年樹齢の木なら、
少なくとも1000年用材として生きるようにしなければ、
木に申し訳ない。
木という材料を
「生命あるもの」として扱い、
その生命をさらに建築物として生かすのが大工の役目。
1000年も生きているような木は、
ほとんど栄養状態の悪いところに育っている。
岩の間の松とか。
栄養状態の良いところで育ったものは
長い年月の間に木の中心から腐ってくる。
木曽のヒノキでは、寿命が600年くらい。
■仕事のはなし。
■宮大工。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のせいか
私の職業は、「宮大工」と呼ばれる。
寺を造っていても宮大工といわれる。
(廃仏毀釈 
明治初年,維新政府の神道国教化政策に基づいて起こった
仏教排斥,寺院・仏像・仏具破壊運動)
■木の上下。
宮大工は、大きな木を取り扱う。
大きな木の場合、木の上・下の区別がつかないときがある。
そのような時は中心を持ち上げ
重いほうを下にして建物にもちいる。
■礎石立ち(写真は「常陸国の天平文化を探る」石岡市教育委員会編より)
法隆寺、薬師寺は、礎石立ちしているから木が腐らない。
飛鳥時代の法輪寺も同じ。
基礎となる石の上にただ柱が置いてあるだけで建っている。

自然石の上に立てられた柱の底は方向がまちまち。
地震が来て揺すられても力のかかり方が違う。
また、ボルトのようなもので固定されていない。
だから地震が来たら揺れる。
いくらか柱がずれる。
しかし、すぐ戻る。
「遊び」のある動きが地震の揺れを吸収する。
屋根の重さが柱にかかっているため、
普通に建っている場合は動かない。
柱と基礎部の石、礎石は繋がっているわけでない。
上においてあるだけ。
横揺れの地震なら、「トトトトトと歩いていってしまう」
ただ、柱は、「石口拾い」といって石の形に木の面を合わせる。
礎石は自然の石。
一つ一つ、石の表面が違う。
石の凹凸通りに印をつけ、それに合せて柱の底を削る。
柱を立ててみて、柱にはしごをかけてみて倒れなければ大丈夫。
むかし、1891年の濃尾地震のときには、
法隆寺?が礎石から離れたらしい。
■くぎのはなし。
釘は板や垂木には使う。
ただ、釘で支えているものでなく、
釘は建築途中の支えのような役割になっている。
建物が出来てしまってからは釘は必要ない。
建築で大事なのは抜き、抜きの入れ方が大切。
■大仏殿の工事。
昭和52年東大寺大仏殿の工事をやった。
屋根を支えているのは、2本の松の梁(はり)で
元禄時代のものだった。
九州の霧島の松を使っていた。
当時、奈良には大きな木がなく、霧島の木を使ったのだと思う。
どのようにして運んだか。
人10万人、牛4000頭を使ったといわれる。
むかしは、木を運ぶのに時間が大変かかった。
一方、この時間がかかったことが物を作るには良かった。
山に生えている木は、そのまま伐採しては使えない。
少し寝かせることが必要。
少し寝かして、木の癖を出してから使う。
現在では、何でも早く、早くといっている。
これではだめ。
木を自然に乾燥させ木の癖をだして
はじめて使えるようになる。
機械でブスブスと打ち込んだ釘では役に立たない。
軽い玄翁で何回か叩いて釘を打つことにより役立つ。
道具の柄の長さは、
その道具の使われ方により、
長さが自然と決まっている。
■自然を敬う。
斧には筋が入っている。
4本線と3本線。
これには意味がある。
山から木を切り出すときには
神様にお神酒をあげてお礼をあらわさなければいけない。
神様が木に与えた生命を、使わせてもらう。
ところが実際、
山の中までお神酒など持っていくことが出来ない。
あらかじめ斧に筋を入れかわりにしている。
筋にはそれぞれ意味がある。
神さまへのお礼が斧に入っている筋だ。
お堂やお宮を建てるときは、「祝詞」を神様にいう。
その中で、
「土に生え育った樹々の生命をいただいて、
ここに運んでまいりました。
これからは、この樹々たちの新しい生命が、
この建物に芽生え育ち、
これまで以上に生き続けますように」
という意味のことをいう。
■物造りは執念。
道具は手の一部。
今も昔も執念で作っている。
物作りは技術ではない。
執念を持つことが必要。
執念を持った物作りには、出来た後に何か不満が残る。
それが、次につながる。
今は何でも急いでやる。
しかし、身体で覚えることは、時間がかかる。
職人を作るには、時間がかかる。
文字や数字により、遺産があるのではない。
身体で覚えてきたから残ってきた。
今出来ることを精一杯やっておく。
あとで何百年か経った後で、
その時代の人が先人の知恵を理解する。
自分が弟子になり
自分が弟子を育てることはたいしたことではない。
今は、嘘や偽りのない本物を作っておくことが伝統であり、大切なこと。
刃物は、一年間くらいあれば切れるようになる。
私は、西岡棟梁からもらったものは「かんなくず」だけ。
刃先に1点の曇りもない刃物はなかなかできない。
鵤工舎の子は、毎日刃物研ぎを夜やっている。
「研いで、研いで、研いで 最後は勘」と西岡棟梁はいっていた。
ちょっとした違いに気づくか、気づかないかの差がある。
テーブルを例にとれば、
「テーブルをまったいらにすること」と指示する。
各人により
「寸法的にまったいら」
「目で見てまったいら」となかなかむずかしい。
古い建築物は、錯覚を矯正して建てられている。
その錯覚を知ることは刃物を研ぐことにより得られる。
■大工の流れ。 
聖徳太子が、大工を朝鮮から4人呼んだ。
そして四天王寺を作った。
今の、興福寺と同じような大きさ。
朝鮮と日本では気候風土が違う。
日本にあったものを工夫している。
奈良時代には、日本の技術に、朝鮮の技術が加味した。
法隆寺出身の中井正吉は、
豊臣秀吉が大阪城を作ったときの大工の棟梁。
大和大工は構造の美を重んじる。
江戸大工は小手先。
長野は独特の雰囲気を作っている。
中井正吉の長男正清(法隆寺大工)は、
家康にお目見え後、五機内近江の職人を支配した。
伏見城再建、また江戸幕府の大工の棟梁となった。
正清は、父正吉の作った大阪城に大砲を打ち込んだ。
中井家はその後、作事奉行支配の京都大工頭として、
大阪城、御所の造営修築にあたった。
一方、近江大工に甲良家があり、
家光時代に日光東照宮作替えを担当。
以後幕府大工頭(江戸)になった)
■西岡棟梁のこと。
法隆寺西里に西岡棟梁は住んでいた。
西里には大工以外の棟梁も住んでいた。
平成7年に亡くなった。
「厳しく、厳しく教えた人」であった。
「法隆寺は安定していて動きがあるだろう」といわれた。
最初言われていることが理解できなかった。
最近は「***********(小川氏の言われていることが理解できなかった。)」
だということがわかってきた。
薬師寺の再建では、天平尺が使われている。
尺度は時代によって異なる。
棟梁の口伝のひとつを紹介。
ここに伽藍を建てる。
伽藍造営には「木を買うのではなく山を買え」といっていた。
「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」
飛鳥建築や白鳳の建築は、
棟梁が山に入って木を自分で選定している。
それと「木は生育の方位のままに使へ」という。
山の南側の木は細いが強い。
北側の木は太いけれども柔らかい。
陰で育った木は弱いという。
生育の場所によって木にも性質がある。
山で木を見ながら、
これはこういう木やからあそこに使おう、
これは右に捻れているから左捻れのあの木と組合はせたらいい。
というようなことを山で見分ける。
これは棟梁の大事な仕事。
法隆寺は1300年前に建てられた世界最古の木造建築。
法隆寺のヒノキは1300年も使っている。
「木は方位のままに使え」という。
■パネルによる説明。 
阪神大震災で礎石立ちの門が移動している写真。
建物の錯覚の例 「木は生育の方位のまま」に使った例。他
■棟梁の口伝について。
「堂塔の木組みは寸法で組まず木のクセで組め」
木には人間と同じで一本一本のクセがある。
そのクセを見抜いて建物を作らないと、
木を生かした建物にならない。
左によじれた木ばかり並べて柱にしたら
建物全体が左によじれたようになる。
「百の工人には百の思いあり。
ひとつにまとめるのが棟梁のつとめなり」
建築は大勢の人々の力を結集してでき上がる。
人間にも、木と同様さまざまなクセがある。
そのクセを読んで、皆が協力できるようにするのが棟梁の仕事。
木も人間も、クセがあるからと外してしまうのは論外。
■最後に。
技術・技能は大切。
しかし、技術、技能以上の物を作った、
作らなければならないことがある。
物のを作るときは、信念がないと出来ない。
信念が物を作る。
■槍鉋(やりがんな)の実演。
小川氏による槍鉋の実演があった。
小川氏の手にもたれた槍鉋の刃先は
光の加減もあったのか良く光っていた。
(下の写真は別のもの)
(槍鉋(やりがんな);
古墳時代に、斧で伐採し、ちょうな(手斧)にてはつり取り、
槍鉋で仕上げるという工法が生まれた。
槍鉋は、現在使われている台鉋ができるまでは使われていた。
穂の長さは3寸〜5寸くらい。
柄の長さは2寸くらい。
両刃で刃は先端に向かって上の方に反っている。
法隆寺の柱もこれで仕上げている)

・・・・・・終了!!
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(以下は記念講演とは別) 
■西岡常一さんについての新聞記事。
1995年4月11日(火) 朝日新聞より。
「法隆寺修理の西岡常一氏」
世界文化遺産の法隆寺の修理や、
白鳳文化を伝える薬師寺の復興に尽くした宮大工棟梁。
文化功労者の西岡常一(にしおか・つねかず)氏が11日、亡くなった。86歳。・・・(中略)・・・
法隆寺近くの宮大工の家に生まれた。
1934年から始まった法隆寺の「昭和の大修理」で、
世界最古の木造建築の金堂や五重塔の解体修理を手がけた。
金堂の解体では、
学者の間で「しころぶき」とされていた屋根が「入り母屋」造りであることを発見、
定説をくつがえした。
1971年。奈良・薬師寺復興の大工棟梁となる。
1976年。金堂を復興。
続いて西塔、中門、玄奘三蔵院などを完成させ、
回廊や講堂の復興にも尽力。
各地の寺院修理にも携わり、
75年には戦時中に落雷で焼失した
斑鳩法輪寺三重塔の再建の棟梁を務めた。
日本建築の原点ともいうべき飛鳥時代の古代工法で
大伽藍を造営できる「最後の宮大工棟梁」といわれた。
■「天声人語」
西岡常一さんが、86歳で亡くなった。
生まれた家が、代々法隆寺に仕える宮大工。
法隆寺の棟梁をつとめた祖父の常吉さんに、
小学校に入る前から仕事を仕込まれた。
戦前から戦後にかけての法隆寺の「昭和の大修理」で、
世界最古の木造建築である金堂や五重塔の解体修理を手がけた。
金堂の上層の屋根について学者とかわした論争。
学者は屋根を玉虫厨子のような錣(しころ)葺きだと考えた。
西岡さんは、実際に組み立てて見せて、
入り母屋造りであったことを示し、定説をくつがえした。
仕事に熱心で、謙虚だった。
1300年前に法隆寺を建てた飛鳥の工人の技術に現代は追いつけない、
と言っていた。
法隆寺には先人の技術と知恵が凝縮されている。
木に残された手斧(ちょうな)の跡や鑿(のみ)が彫り込んだほぞに
職人の腕や心構えが見える。
木は人間と同じで一本ずつがすべて違い、
それぞれの木の癖を見抜いて、
それに合った使い方をする必要がある。
樹齢千年の桧(ひのき)なら千年以上もつ建造物ができる。
木を生かす技は数値に表せず「手の記憶」によって引き継がれる。……。
「古いことでもいいものはいいんです。
明治以来ですな、経験を信じず、学問を偏重するようになったのは」
といった。
どうしても弟子になりたい、と言ってきた人を、
断り続けたあげく弟子にした。
そのいきさつや訓練の様子が、
西岡さんの手紙の謹直な文面とともに
小川三夫著『木のいのち木のこころ 地』にくわしい。
西岡さん自身、やはり法隆寺宮大工だった祖父・常吉さんから、
同じような棟梁教育を受けている。
5、6歳の頃、
法隆寺の塔頭(たっちゅう)の修理現場に連れて行かれて、
仕事場の空気を体に吹きこまれた。
大人の大工たちと同様、
毎月2回の休みの日以外は、
毎日連れて行かれたというから徹底している。
終戦後、
法隆寺のほとんどの建物が解体修理されることになった。
建物が建てられてから1300年も経っている。
大工さんは、
そんなに古い建物を修理するのははじめて。
もちろん修理をする大工は、
お寺やお宮さんを専門に建てる宮大工。
建物も時代とともに技術革新されて少しずつ変化している。
大工さんの技術も変化しています。
最初に建てられた姿に戻すことは大変困難。
そこで登場するのが、
法隆寺西里の宮大工「西岡家」。
法隆寺西里には、
法隆寺を1300年にわたって守ってきた大工さんが住んでいた。
当時は大工が少なくなっていた。
西岡常一棟梁の祖父「常吉」が棟梁になる。
父の「楢光」と共に「常一」さんも昭和の大修理を行う。
その修理の中で西岡常一棟梁は、
法隆寺の建物から建てられた当時の大工の技術や考え方を学んだ。
時代を超え、
世代を超えて技術が受け継がれて、
法隆寺の建物がいま私の前に凛として建っている。