00/5/9他   茨城県常陸太田市新宿町  西山荘。
1691年。水戸黄門、水戸2代藩主徳川光圀、義公が江戸城を後にする。
1691年から1700年の間、72歳で没するまで、西山荘で過ごした。
西山荘で、「大日本史」の編纂、
編纂、多くの領民と親交を重ねた。
西山荘には、医師や料理人を含め、男女30数人ほどが奉仕していた。
母屋の建物は、丸窓から築山と心字の池が眺められる。
質素な茅葺き屋根。
茅葺きの母屋の建物は現存の3倍あった。
1817年。野火により焼失。
1819年。水戸8代藩主徳川斉脩(なりのぶ)が規模を縮小して再建。
西山山荘記碑 高さ4m。
篆額は水戸徳川家12代昭武、
撰文と書は詩人野口雨情の伯父、野口勝一。
(説明板より)

ただ見れば 何の苦もなき 水鳥の 
足にひまなき わが思いかな 
光圀詠む

朱舜水碑  
明の儒学者。
1665年、水戸藩主の徳川光圀に招かれて江戸に住む。
水戸学へ思想的影響を与えた。

ご前田  
光圀が自ら耕した水田跡。
太田奉行所に年貢米を収めた。(案内板より)





熊野杉



ご殿

西山荘の蓮の花

■漢詩
義公64歳の作  
西山荘 
 
遊鹿鳴禽皆友子 
吟花酌月飽蓴鱸 
緑苔日厚稀人跡 
世上塵埃一点無
  
遊鹿(ゆうろく) 鳴禽(めいきん) 皆な友于(ゆうう) 
花に吟じ月に酌んで蓴鱸(じゅんろ)に飽く 
緑苔 日に厚くして 人跡稀れなり
世上の塵埃 一点も無し  
山に遊ぶ鹿も、さえずる小鳥も、
すべて私の兄弟達である。
花には詩歌を詠み、月には酒を酌み、
また、常州の名産に心ゆくまで満足している。
草庵のあたり、
苔は日に日に厚くなって、
人の訪れてくることもめめったにない。
俗世の塵埃なぞここには全く入りこまない。
清らかな別天地を楽しんでいるのだ。
「蓴鱸」は蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい)
すなわちジユンサイの吸い物とスズキのなます。
昔、晋の張翰は、
この二つの故郷の名産を思い出して、
がまんできずに辞職して帰郷してしまった、
という故事にもとづく。
「水戸光圀の漢詩を尋ねて」大林林造著より

■光圀公の略年表
1628年 水戸城下で生まれる
1633年 水戸徳川家の世子に決まる。   
1636年 元服し、光国と名乗る。
1654年 前関白近衛信尋息女尋子(泰姫)と結婚。  
1657年 駒込藩邸内に史局を開く。  
1661年 父頼房没し、第2代水戸藩主となる。   
1672年 史局を小石川に移し、彰考館と名づける。  
1676年 大日本史編纂の史料調査を開始。   
1677年 稲木村久昌寺を新築。  
1679年 このころ光国を光圀に改める。   
1690年 家督を第3代綱條公に譲った後、
権中納言(唐名黄門)に任ぜられる。   
1691年 西山荘に隠居する。  
1698年 水戸城内にも彰考館を開始。
1700年 西山荘で没す。
瑞竜山に永眠。