●茨城朝日2002/07/31より 戦争の記憶を絵に残したい
昭和20年3月10日未明、
東京・代々木の練兵所。
前夜からB29の空襲に追いかけ回され、
燃えるもののない広い所を目指して逃げた。
たどり着いたのが練兵所。
逃げ疲れ
「どうにでもしやがれ」と寝そべると、
爆撃を終えたB29が、
悠々と低いところを飛んでいる。
逃げてきた方角を見れば、
町中が燃え、
その照り返しで、夜空が明るくなっていた。
水戸市見川の松永朔郎さんは現在76歳。
戦争体験を描き、展覧会を開こうと呼びかけている。
定年後始めた絵画のキャリアは15年になる。
描く意欲があるうちに、
記憶があいまいになる前に、
57年前の戦争の、特に庶民の生活実態を、
絵に残そうと決めた。
悲惨だった現実をたくさんの人に伝えたいと
「戦争中の体験を絵に描いて、
展覧会を開こう」と、
同世代の人々に呼びかけている。
これまで油絵や水彩で、
もっぱら風景や花、静物を描いてきた松永さん。
戦争の絵を描き始めたきっかけは、
パステル教室の
「詩を読んで、絵に描く」というテーマからだった。
「僕の世代ではそんなモダンなことはわからないから」と、
詩といえば小学唱歌、
唱歌といえば故郷の歌、
故郷といえば・・・と連想していくうちに、
出身地・東京での戦争の記憶が浮かび上がってきた。
松永さんの故郷の思い出の中には、
小川や野原はなく、
あったのは、焼い弾が降り注ぐ下を逃げまどう、
自分やたくさんの人々の姿だった。
松永さんは当時理工系の学生で、
戦時中は無線機工場に勤務。
そのせいか、兵役は延期になり、東京にとどまることに。
神田、渋谷、王子、下十條と東京を転々とする中で、
家を直撃した爆弾で、父と姉、妹を、失ってしまう。
父49歳、姉22歳、妹12歳だった。
悠然と低いところを飛ぶ B29の胴体を 
逃げ疲れて寝そべった僕は 放心して眺めた


この絵の中で寝そべっている松永さんは20歳。
「僕は若くて独りだったから、
火を見ながら自由に逃げられたけど、
もう観念しちやったのか、
学校の門の所にござを敷いて座りっきりの、
乳飲み子を抱えた人もいた」 
大八車に、布団や、衣服を積んで引っ張っていくものの、
途中で投げ出すより仕方なかった人、
なすすべもなく道路に止まったままの何台もの消防車。
「あんなに燃えちやってるもの、消火できるわけないよ」。
そんな光景をこれから絵にしていこうと考えている。
明るい色調で花や星を描いたほかの作品とはあまりに異質なこの絵は、
合評会の出席者から
「あー」というため息にも似た声が発せられただけで、
席をシーンとさせてしまった。
教室には70歳前後の人が数人いたものの、
多くは30〜40代。
「話には聞いていたとしても、
こんな悲惨な現状を知っているわけがない」
と松永さん。
自分の国の本土で起きていたことを知らない人が、
現在の社会の大勢なのだということを、
改めて知った思いだった。
松永さん自身は結局34歳まで東京で生活し、
その後東海村に職を得て茨城に。
定年後、60歳を過ぎてから、趣味で絵画を始め、
油絵、水彩画に次いで、
3年程前から生涯学習センターの講座で
パステル画も学ぶようになった。
いま、松永さんは、本土の空襲を体験した人に、
場所と日時を書き添えて、絵を描くことを呼びかけている。
記録となるものを集めて、展覧会を開きたいからだ。
「美術としての絵画ではなく、
貴重な歴史的資料ですから、
うまい、下手は関係なく、たくさんの人に参加してもらいたい」。
絵を描いたことがない人には、相談会を開くことも考えている。
「見た人がその絵をどう判断するかは別にして、
事実を知って、昔のことを現実の問題として捕らえておくのは、
今のような時代では特に大切なことだと思う」
と松永さん。