会津人の三絶句   
●秋月胤永「行くに輿なく」の長編 
●安部井政治の「海潮枕に到り」
●永岡久茂の「独木誰か支えん」

■秋月胤永あきづきかずひさ。
1824〜1900。
会津藩士。後に漢学者・詩人・書家。
通称 悌次郎 号韋軒 字は子錫しえき。
1824年。会津若松の生まれ。
1835年。日新館入学。
1842年。江戸藩学校で学ぶ。
1847年。昌平黌で学ぶ。
1851年。書生寮助役。
1854年。舎長となり功績を挙げる。 
1857年。卒業。
1859年。藩命により全国視察旅行。
帰藩後「観光集」7巻「列藩名君賢臣事実」を著し藩主に献上。
1862年。藩主容保が京都守護職に任命される。
公用局員として上京。藩主の入京準備にあたる。
中川宮朝彦親王・二条関白の顧問となり信任を得る。
1863年。政変の舞台裏で活躍 
1865年。蝦夷地代官となり斜里に赴き開発事業に貢献。
1867年。京都に呼ばれる。
公用局員として会薩協調を図る。
既に薩摩は長州と結び、会薩同盟は失敗。
1868年。戊辰戦争。
参謀として各地で奮戦。
敗戦に際し降伏の一切の采配をふるう。
開城後謹慎。
1872年。幽囚を解かれる。
その間、「行無輿兮帰無家 國破孤城乱雀鴉 ・・・」の詩を詠む。
詩は猪苗代謹慎中ひそかに越後に赴き
奥平謙輔(長州参謀)に再開した帰途
束松峠において詠んだ。 
後文部省の役人・東京大学予備門の教師。
1890年。熊本第5高等学校の教師となる。
6年間を過ごす。
1891年。「教育勅語演説」を著し天皇に献上。 
また北白川宮能久親王に経書を進講

有故潜行北越 帰途所得 秋月胤永 故ありて北越に潜行す 帰途得る所 
行無輿兮帰無家  行くに輿無く 帰るに家無し 
國破孤城乱雀鴉  國破れて 孤城雀鴉乱る
治不奏功戦無略  治功を奏さず 戦略無し 
微臣有罪復何嗟  微臣罪あり 復た何をか嗟かん
聞説天皇元聖明  聞くならく 天皇もとより聖明
我公貫日発至誠  我公の至誠を発す日に貫なし
恩賜赦書応非遠  恩賜の赦書 応に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城  幾度か額に手して京城を望む
思之思之夕達晨  之を思い之を思うて夕晨に達す
憂満胸臆涙沾巾  憂胸臆に満ち 涙巾を沾す
風淅瀝兮雲惨澹  風淅瀝として 雲惨澹たり
何地置君又置親
  何れの地に君を置き 又親を置かん 
        

安部井政治あべいせいじ。
1845〜1869。会津遊撃隊士。会津藩士。
香坂源吾の次男に生まれる。
安部井家を継ぐ。
藩校日新館から江戸昌平簧に学んだ秀才。
様式築城学を研究。
日新館教授となる。
1868年。会津藩引上げ後も江戸に留まって敵情を探る。
その後は奥羽列藩同盟結成のため各藩を遊説して回る。
遊説中、仙台で母成峠敗戦の報と敵軍の若松城下侵入を聞く。
帰城できないまま榎本武揚に身を投じる。
函館五稜郭戦争に会津遊撃隊左図役として参加。
1869年。矢不来いの激戦で奮闘。
「会津武士の勇敢さを見よ」と言って敵軍の真っ只中で戦死した。
行年25歳。
遺作の「海潮到枕欲明天 感慨撫胸独不眠 一剣未酬亡国恨 北辰星下送残年」は
明治 大正期の会津人に愛唱された。
 
海潮枕に到り 安部井政治 
海潮到枕欲明天 海潮枕に到り 天明かなるを欲す 
感慨撫胸独不眠 感慨は胸を撫し 独り眠れず 
一剣未酬亡国恨 一剣未だ酬いず 亡国の恨
北辰星下送残年
 北辰の星下 残年を送る

注記
明天聡明な天子を明天子と云うことから、
明天とは孝明天皇亡き後の聡明な天子の出現を欲している。
・・・との意味では?
北辰北極星残年(ざんねん)余生、余命、残生


永岡久茂ながおかひさしげ。
1840〜1877。
思案橋事件の首謀。会津藩士。
若松城下に生まれた。通称敬次郎。
日新館から江戸昌平簧に留学。
明敏豪邁・機略に富み、漢詩をよくした。
鳥羽伏見の戦いに破れて後、
奥羽列藩同盟・北越連合に奔走。
戊辰戦争後斗南藩に移るとき、下北説を主張。
広沢安任と斗南藩少参事として権大参事の山川浩に仕える。
斗南藩瓦解後上京。
評論新聞社を創立して新政府を論撃。
1876年。萩の前原一誠等と東京思案橋から千葉へ船出を計画。
そのとき警察官と斬り合って捕縛される。
受けた傷のため獄中で死亡。
同志は処刑された。

独木誰か支えん 永岡久茂
独木誰支大力傾  一本の木で大家の傾くのは支えられず
三州兵馬乱縦横  奥羽越の三州は兵戦でめちゃくちゃだ
羈臣空灑包胥涙  使者の私が包胥の涙を流しても効かなく
落日秋風白石城
  日は落ち、秋風が白石城に吹いている
意味
徳川幕府が歴史の流れの中で倒れかけている事態を会津一藩で変えることはできない。
奥羽越の三州は戦いでめちゃくちゃな状態だ。
奥羽越同盟を結ぼうとして白石城で同盟の協議を持った。
しかし旨くいかず。
日は落ち秋風が吹いて寂しさが身にしみる。
会津を離れ旅に出ている自分は、
春秋時代の包胥と同じような立場に思える。
主君の為十分に応えられずに残念だ。
ただ涙を流すだけだ。


包胥について 人の名前か? 
永岡氏が包胥の立場で奥羽越同盟を計ろうとしたが実を結ばなかった。
大漢和辞典(大修館書店・諸橋轍次著)によれば以下のように書かれている。
包胥(ハウショ)  春秋、楚の大夫。
申包胥をいう。
[左氏、定、四]申包胥ニ求於秦。
 [魏志、臧洪傳]包胥宜レ致ニ命於イ吾員一。申包胥(シウハウショ) 春秋、楚の人。 姓は公孫。楚の大夫となり、申に封ぜられたので申包胥と称せられる。
呉が楚を侵した時、秦の援を得て遂に呉の兵を破った。
[准南子・修務訓]・[新序、節士]羈臣について;旅にでた家来の意味か?

参考文献
「会津・斗南藩史」 葛西富夫著 東洋書院
[秋月一江](会津大事典)
[宮崎十三八](会津大事典)
「若松市史・下」