埼玉福祉会 私の歎異抄 紀野一義著より
鴉の詩 奇妙なことに わたしはこの第三条を読むたびに三好達治の詩「鴉」を思い出すのである。
●三好達治の詩 鴉の詩
風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、
人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようていた。
風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、
そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまう。
その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。
私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。
−とまれ!
私は立ちどまって周囲に声のありかを探した。
私は恐怖を感じた。
−お前の着物を脱げ!
恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、
余儀なくその命令の言葉に従つた。
するとその声はなほも冷やかに
−裸になれ!
その上衣を拾って着よ! と、
もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。
私は惨めな姿に上衣を羽織って風の中に曝されてゐた。
私の心は敗北の用意をした。
−飛べ!
しかし何と云ふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。
私は自分の手足を顧みた。
手は長い翼になって両談に畳まれ、
鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。
私の心はまた服従の用意をした。
−飛べ!
私は促されて土を蹴つた。
私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、
ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、
あてもなく一直線に翔つていつた。
感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら−。
私は長い時間を飛んでいた。
そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、
私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みていた。
それだのに、ああ!
なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかったか。
−啼け! おお、今こそ私は啼くであらう。
−啼け!
−よろしい、私は啼く。
そして、啼きながら私は飛んでゐた。
飛びながら私は啼いてゐた。
−ああ、ああ、ああ、ああ、
−ああ、ああ、ああ、ああ、
風が吹いてゐた。
その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。
冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。
●この象徴的な詩の真意がどこにあるのか知るべくもないが、
枯草の上に捨てられた一枚の黒衣にわたしは「出家」を感じた。
果てのない野原はこの人生であり、その中を走る一筋の道を「私」は行く。
行くべく定められた孤独な道である。
宿業によって、行くことを余儀なくされた道である。
その道を行く「私」はどこからともなく呼びかける声によって着物を脱がされる。
それによつて自分の個性・趣味・経済力・地位をあらわしている着物を脱がしめられる時、
「私」は没個性になる。
自分が自分でなくなる。
ただ一個の物体と化する。
人間としては死ぬのである。
昭和18年12月に学徒動員で広島の五師団工兵連隊に入隊した日、
小雪の舞う営庭に大きな円陣を作って立たされたわたしたちは、
その場で洋服を全部脱がされた。
将校が褌も外せと命令した時、わたしたちは仰天した。
羞恥と烈しい憤りとが体中を駈けめぐつたが、
命令に違反することはできなかった。
軍医が円陣の中に入って性病の検査をした。
それはきわめて形式的なもので、
彼らの目的は、
わたしたちの個性や市民感情や
ささやかな抵抗の感情や自負心などをぶちこわすためであることは明らかであった。
わたしはあの荒涼たる風景を死ぬまで忘れることはない。
あれが軍隊であったのだ。
人間は、真に裸になることなど、なかなかできるものではない。
無我になつた、無心になつたというが、
その時、居ても立ってもいられぬような羞恥や憤りを感じたろうか。
はじめから自我というべきものなど持ち合わせてもおらぬものが無我になったと錯覚するから、
羞恥も憤りもないのではないのか。
たとえ神の前、仏の前に無我になる時でも、
羞恥や憤りや敗北感はあるはずではないのか。
それは、恥を曝すという感じであった。
人間は、名誉も、地位も、才能も、名声も、財産も、家も、妻も、子も、
ことごとく向こうから去って裸にされた時、
屈辱と悲哀にふるえながら立ち、ついには立つべき場さえも失くして、
鴉の如く追われる時、はじめて恥を曝したといえるのではないか。
その時はじめて、
ああ、ああ、ああ、ああという声が胸のふかどの悲しみから、
笛のょうに噴きあげてくるのではないのか。
その頬には水のように冷たい涙が、流れて、流れて、とどまらぬのではないのか。
自分を極重悪人と感ずるのは、そういう時ではないのか。
●歎異抄 第三条
善人なほもつて往生をとぐ、
いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、
「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、
一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、
自力作善のひとは、
ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。
しかれども、
自力のこころをひるがへして、
他力をたのみたてまつれば、
真実報土の往生をとぐなり。
煩悩具足のわれらは、
いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、
もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、
まして悪人はと。
仰せ候ひき。