21/2/5 阿弥陀如来の本願力。
■私は生まれてから
さとりをひらく修行をする世界を
知らなかった。
歳をとると何か頼るものがほしかった。
縁あって仏の世界を知りたくなった。
修行をして自力でさとりをひらくことは
考えられない。
ありがたいことに親鸞聖人が
阿弥陀如来の真実を示された
浄土真宗の救いの世界をしった。

■「浄土真宗の救いのよろこび」の
「如来の大悲に生かされて
御恩報謝のよろこびに
南無阿弥陀仏を称えつつ
真実の道を歩みます」
・・・
「宗祖親鸞聖人が 
如来の真実を示された
浄土真宗のみ教えを 
共によろこび広めます」とある。
具体的にはどうするのか。

■三願転入ということばがある。
三願転入は親鸞聖人の
たどられた足跡のこと。
三願は阿弥陀如来の四十八願の中、
十九・二十・十八の三願のこと。
第十九願は完全自力。
第二十願は自力と他力のまざったもの。
第十八願は完全他力。
親鸞聖人は十九・二十・十八の
三願を体験された。
いくら修行しても自分の力では
まことのさとりを得られなかった。
阿弥陀如来の本願力に救われる世界が
あることに気づかれた。
これが十八の願のご法義。

■阿弥陀如来は全ての人を救うため
あらゆる修行をことごとく成就された。。
何もかも仕上げたうえで、
間違いなく救うから
そのままお浄土に来なさいと
呼んで下さる。

■阿弥陀如来が得られたさとり全体を
私は頂戴させていただく。
阿弥陀如来の本願の中に
さとりの道を見つけさせていただく。。

■第十九願 
たとひわれ仏を得たらんに、
十方の衆生、菩提心を発し、
もろもろの功徳を修して、
至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。
寿終るときに臨んで、
たとひ大衆と囲繞してその人の前に
現ぜずは、正覚を取らじ。
■第二十願。
たとひわれ仏を得たらんに、
十方の衆生、わが名号を聞きて、
念をわが国に係け、
もろもろの徳本を植えて、
至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。
果遂せずは、正覚を取らじ。
■第十八願。 
たとひわれ仏を得たらんに、
十方の衆生、至心信楽して、
わが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。
ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

■親鸞聖人は
他力は阿弥陀如来の本願力という。。
本願力は私を救い、
仏の力・仏のいのち・仏の願いを
私の身にうえつける。
本願力をうえつけ私を仏にしていく。

■本当の他力が身についたら
仏の力が私の身にも心にも満ちる。
それが明けても暮れても
私の生活の基本になる。
阿弥陀如来のおぼしめし通りに
活動させていただく。

■他力は何もしなくても
仏さまがやってくれると思うのは間違い。
親鸞聖人は時間を惜しんで勉強され、
ご本願を人々に伝える日々を過ごされた。

■阿弥陀如来の本願力をきいたひとは
阿弥陀如来の力・いのちが
頭の先から足のさきまでみなぎる。
阿弥陀如来のお慈悲をいただいて
お互い助け合って力を出し合って
世の中安穏なれ・仏法広まれと
はたらく。
一生懸命に働かずにいられない。
阿弥陀如来の慈悲のお心を
皆に伝えていく。

御恩報謝とは一生懸命に
働かせていただくこと。
皆が幸せに暮らせるようにと
願いながら努力を続ける。

■真宗の真とは真実。 
阿弥陀如来の真実を身にうけて
阿弥陀如来の真実を
自分の行いとさせていただく。
真は阿弥陀如来の真実をいう。
真実の実はさとりの真実を身に受けて
自分の日々の暮らしが
阿弥陀如来のおぼしめしにかなった
日ぐ暮しをしていくのこと。

■遊んでばかりはいられない。
阿弥陀如来のおぼしめしにかなう
日ぐ暮しを過ごさねばならない。

「あさなあさな、仏とともにおき、
ゆうなゆうな、仏をいだきてふす」
傅大士の言葉。

南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏。